チェ・ゲバラ【エルネスト・ゲバラ:Ernesto Guevara】というと、俳優顔負けのそのルックスで、若者向けのTシャツになってるほどのカリスマで、あのジョン・レノンも「世界で一番かっこいい男」と絶賛しています。
この記事では、単なる「イケメン」だけでなく、弱い人たちのために戦い続けた永遠のヒーローであるチェ・ゲバラに迫ります! 革命家としてよく知られているチェ・ゲバラですが、その素顔について新たな発見があるかもしれません。
1.チェ・ゲバラの年表
- 1928年(0歳)
アルゼンチンのロサリオの裕福な家庭に生まれる。
両親はアルゼンチン人で、父の名はエドゥアルド・ラファエル・エルネスト・ゲバラ・リンチ、母はセリア・デ・ラ・セルナ・イ・ジョサ。
5人兄弟の長男で、生まれたときは未熟児だった。 - 1932年(4歳)
肺炎を患って、重度の喘息になってしまう。
喘息の治療のためにコルドバに転居する。 - 1941年(13歳)
コルトバの高等学校に入学する。 - 1948年(20歳)
ブエノスアイレス大学の医学部に入学する。アレルギーの研究を専門とする。 - 1950年(22歳)
北部アルゼンチンをモペッド(ペダル付きのオートバイで)走破する。 - 1951年(23歳)
オートバイで南アメリカを放浪し、ラテンアメリカを見聞。
親友の医師、アルベルト・グラナード・ヒメネスと共に行動した。 - 1953年(25歳)
医学部を通常6年過程を3年で卒業し、医師免許を取得する。
しかしながら軍医にはならず、アルゼンチンを放浪。
グァテマラで当時亡命キューバ人だったイルダ・ガデアと知り合う。 - 1955年(27歳)
イルダ・ガデアと結婚。 - 1956年(28歳)
長女誕生。カストロと知り合う。
以後25ヶ月に及ぶゲリラ戦に参加。 - 1959年(31歳)
キューバ革命を先導する。キューバの国立銀行総裁に就任。
イルダ・ガデアと離婚し、アレイダ・マルチ・デラ・トーレと結婚する。 - 1960年(32歳)
「ゲリラ戦争」を出版。ソ連を初訪問する。 - 1964年(36歳)
アルジェリアを訪問し、国際連合主席でキューバ代表として演説。
7月26日運動の合言葉、「祖国か、死か」を紹介する。 - 1965年(37歳)
「別れの手紙」を残しキューバを去る。
アフリカ各地を訪問し、コンゴでコンゴ動乱に参加する。 - 1966年(38歳)
コンゴ動乱からチェコスロバキアに移り、チェコ情報機関として滞在。
その後、ラテンアメリカに戻り、変装をしてボリビアへ渡る。 - 1967年(39歳)
1967年4月にハバナで開催されたアフリカ、アジア、ラテンアメリカの三大陸人民会議へのメッセージの中で、当時ボリビアのジャングルにいたゲバラは、広島と長崎への原爆投下に言及した。その後、ボリビアの革命に参加し、バジェグランデ近郊のイゲラ村で捕らえられ銃殺された。
<チェ・ゲバラの名前の由来>
本名はエルネスト・ゲバラですが、なぜチェ・ゲバラと呼ばれるようになったのでしょうか?
「チェ」とはスペイン語で「ねえ」「やあ」と親しみを込めて呼ぶ言葉で、ゲバラが初対面の人に、「チェ!(やあ!)エルネスト・ゲバラです。」と挨拶をし、その「チェ」の発音が独特だったことから、この名前で呼ばれるようになったそうです。
ちょっとほほえましいエピソードですね!
2.幼少時代のエピソード
- 未熟児で生まれたせいか、虚弱体質で時にはけいれんを起こすほどの喘息を起こし、何度も命の危機にさらさられました。
彼の体を心配した両親は、空気の良い場所を求めて何度も引っ越しを繰り返しました。 - 喘息の発作のために、酸素吸入器を持ち歩くほどに病状が心配されました。
- ゲバラの10代前の祖先であるパトリック・リンチは、1700年代にアルゼンチンに移住してきたアイルランド移民でした。
この「アイルランド系の血筋」がチェ・ゲバラを革命家にしたのではないかと言われています。 - 父親がサン・イシドロ・ラグビークラブというチームに所属していた理由から、幼いころからラグビーを愛していました。
しかし、激しいラグビーのプレイ中も喘息が出ると、吸入器を使用し、回復したらプレーを続けるなどタフな精神とラグビー愛を持っていました。 - 喘息のために学校に行けず、自宅で勉強をしていた時期に、詩を読むことを始めました。
チリの詩人「パブロ・ネルーダ」、ペルーの詩人「セサル・バレホ」、キューバの詩人「ニコラス・ギレン」などの詩を手帳に書き移して、ずっと持ち歩いていました。 - 自宅の3000冊余りの蔵書から、ルソーやガンジーなどの思想家や、シェイクスピアや詩人ボードレーなどの著作の数々を読み漁りました。
- 弱冠14歳で精神分析学者フロイトを読んで、哲学的思考を確立させていきました。
- 数学や考古学、心理学や工学などが得意でした。
- 両親が保守的な慣習にとらわれないリベラルな思考の持ち主で、とりわけ母親は無神論者だったそうです。
- 喘息が落ち着いているときは、近所の子供を引き連れて街を練り歩くようなガキ大将だったといいます。
- 服装には無頓着な、ワイルド派?でした。
3.チェ・ゲバラ作品
映画
- 1969年
「ゲバラ!」
監督:リチャード・フライシャー、主演:オマー・シャリフ - 2004年
「モーターサイクル・ダイアリーズ」
監督:ウォルター・サレス、 主演:ガエル・ガルシア・ベルナル - 2005年
「チェ・ゲバラ 革命と闘いの日々」
監督:ジョシュ・エヴァンス、主演:エドゥアルド・ノリエガ - 2008年
「チェ/28歳の革命」「チェ/39歳 別れの手紙」
監督:スティーブン・ソダ―バーグ、主演:ベニチオ・デル・トロ - 2017年
『エルネスト』
監督:坂本順次、主演:オダギリジョー
舞台
宝塚 月組公演「チェ・ゲバラ」ミュージカル
書籍
- 1960年
「ゲリラ戦争」
著者:チェ・ゲバラ - 1963年
「Episodes of tyhe Cuban Revolutionary War」
著者:チェ・ゲバラ - 1965年
「Socialism and Man」
著者:チェ・ゲバラ - 1968年
「ゲバラ日記」
著者:チェ・ゲバラ - 1992年
「チェ・ゲバラモーターサイクル南米旅行日記」
著者:チェ・ゲバラ
他多数著書があります。
4.チェ・ゲバラの名言
The walls of the educational system must come down.
Education should not be a privilege, so the children of those who have money can study.
教育制度の壁を取り壊さなければならない。
教育は裕福な子供だけが勉強できるといった特権があってはならない。
ー貧富の差に関わらずすべての子供たちに教育を与えるべきだという考えが表れていますね。
The life of a single human being is worth a million times more than all the property of the richest man on earth.
一人の人間の命は、地球上で一番豊かな人間の全財産よりも100万倍価値がある。
ーチェ・ゲバラは、人間の命が、どんな莫大な財産より貴重であるという価値観を持っていました。
We cannot be sure of having something to live for unless we are willing to die for it.
目的のためには死をもいとわないと思えた時、私たちは生きがいを確信することができる。
The first duty of a revolutionary is to be educated.
革命家にとって第一の義務は、教育を受けることだ。
Passion is needed for any great work, and for the revolution passion and audacity are required in big doses.
情熱はどんな偉大な仕事にも必要であり、革命には情熱と大胆さが大量に求められる。
Hatred is an element of struggle; relentless hatred of the enemy that impels us over and beyond the natural limitations of man and transforms us into effective, violent, selective, and cold killing machines. Our soldiers must be thus; a people without hatred cannot vanquish a brutal enemy.
憎しみは闘争の要素である。敵に対する執拗な憎しみは、人間の自然な限界を超え、我々を効果的で、暴力的で、選択的で、冷徹な殺人マシーンへと変貌させる。憎しみのない民族は、残忍な敵を打ち負かすことはできない。
5.ゲバラと広島
1959年7月25日、ゲバラは国立銀行総裁として通商代表団を率いて来日しています。
もともと広島訪問はスケジュールになかったのですが、原爆記念日を前にして、「他のすべての予定をキャンセルしてでも、ぜひ広島の原爆慰霊碑に献花をさせてもらいたい」というゲバラの強い要望から、急遽広島を訪れました。
そして献花を終え、一時間以上かけて原爆資料館を見学したゲバラが、通訳担当の県職員に英語でこう問いかけました。“America did a terrible thing. Aren’t you Japanese angry about the atrocity that was perpetrated on you?”「アメリカはとてもひどいことをした。君たち日本人は、アメリカにこれほどの残虐な目にあわされて腹が立たないのか」という言葉でした。
その後、ゲバラはキューバの人々に原爆の恐ろしさを伝え、「平和のために断固として闘うには、この地を訪れるのがいい」とも語ったそうです。
それ以降、キューバは原爆教育に力を入れるようになって、現在でも毎年8月6日と8月9日に国営放送で特番を組んで、小・中学生などに広島、長崎の原爆投下について教育をしているということです。
2024年、日本被団協がノーベル平和賞を受賞しました。もしゲバラがいま生きていたら、この受賞についてコメントをしたのではないでしょうか。
6. 没後50周年を記念する写真展と映画
2017年、チェ・ゲバラの没後50周年を記念して、恵比寿ガーデンプレイスのザ・ガーデンルームで世界巡回写真展「写真家チェ・ゲバラが見た世界」が行われました。
同年、ハバナにあるチェ・ゲバラ研究所の所員であるチェ・ゲバラの息子、カミーロ・ゲバラさんがこの写真展のため来日しました。
その際のインタビューの記事が下記の参考サイトの記事で読めますので、ご興味があればぜひチェックしてみてください。
また、2017年10月に公開された日本・キューバ合作映画『エルネスト』では、愛用していたニコンのカメラを原爆ドームに向けるゲバラも描かれているそうです。この映画では、キューバ革命の英雄チェ・ゲバラと共闘した日系人の生涯を、オダギリジョーが主演しています。
参考サイト:https://www.buzzfeed.com/jp/kotahatachi/che
訳)チェ・ゲバラを描いた映画は5本あり、彼を描いた書籍もたくさんあります。
訳)それは、彼が母国キューバをはじめ、世界中の人々からどれほど尊敬され、愛されていたかを証明しているね。
訳) 2017年に公開された『エルネスト』という映画を見たいです。。
訳)僕もです。その映画も見たいし、広島の原爆資料館も訪れたいよ。
まとめ
裕福な家庭に生まれ育ち、医師の資格まで取ったのにもかかわらず、明日の命もわからない革命に身を投じたチェ・ゲバラ。
現在でも彼の評価はさまざまですが、彼を突き動かしていたものは「愛」であるとゲバラは語っています。彼の考えていたことをすべて理解するのは難しいですが、名言の中には彼の信条や考えが表れています。
チェ・ゲバラが国立銀行総裁として通商代表団を率いて来日した際に、原爆資料館を訪れ、原爆投下についてコメントをしていたことに驚きましたね。
「愛のない本物の革命家なんて、考えられない」このような考え方をするリーダーが今後現れるとは、なかなか考えにくい。
そんな気持ちになりました。
One has to grow hard but without ever losing tenderness.
人は強くなければならないが、決して優しさを失ってはいけない。- チェ・ゲバラ
チェ・ゲバラの功績や名言は、祖国キューバだけでなく世界中で語り継がれていくことでしょう。