マリ・キュリーは、フランスの物理学者として知られています。
夫のピエール・キュリーも物理学者だったことから、マダム・キュリー (Madame Curie) ともよばれ、子ども向けの偉人の伝記などでは「キュリー夫人」と紹介されてきました。小学生くらいのときに伝記を読んで、初めて世界的に有名になった女性科学者というイメージをもった方もいることでしょう。
マリ・キュリーはどのような女性だったのでしょうか?
「マリア」から「マリ」、そして「キュリー夫人」へ
「史上もっとも世界に影響を与えた女性」ともいわれるマリ・キュリーは、ポーランドのワルシャワ生まれです。誕生のときにはマリア・サロメア・スクウォドフスカ(Maria Salomea Skłodowska)と名づけられました。
成人後、学業のためにフランスに移り住んだことから、フランス風に「マリ」と名乗るようになったと伝えられています。
そしてピエール・キュリーとの結婚により、キュリーの姓を名乗ることになります。
19世紀、女の子が高等教育を受ける間口は狭く、独立した職業人になることもたやすくはありませんでした。女性が学問をすることは無意味だという風潮があった時代に、いくつもの実績でそれを覆したマリ・キュリー。
夫とともに研究に取り組みましたが、マリの業績は後世に残るもので、決して夫の功績に見劣りすることはありません。ここではマリのたゆまぬ努力を称えて、「キュリー夫人」になる前からのマリの人生を見つめてみたいと思います。
マリ・キュリーの略歴
- 1867年11月7日(0歳)
帝政ロシアの支配下にあったポーランドの首都ワルシャワに、5人きょうだいの末っ子として生まれる。
父ヴワディスワフ・スクウォドフスキは下級貴族階級出身で科学者。
母ブロニスワヴァ・ボグスカもやはり下級貴族階級出身で、女学校の校長を務めていた。
父の失業と母・姉の病死
- 1873年(6歳)
父が密かに行っていた講義がロシア政府の知るところなり、仕事を失った。
母も体調を崩し、一家は住居を失って困窮する。 - 1878年(11歳)
母親を結核で亡くす。
これに先立つ1876年には、チフスで長姉ゾフィアが命を落としている。 - 1883年(16歳)
ギムナジウム(中等学校)を優秀な成績で卒業。
当時は女性が大学に進むことはできず、1年間を田舎で過ごす。
ワルシャワに戻り、非合法だったワルシャワ移動大学で学ぶ。 - 1885年(18歳)
南部のクラクフでガヴァネス(住み込みの家庭教師)を始める。
- 1890年(23歳)
ワルシャワ歴史地区にある農工博物館に勤務、実験室で科学研究の技能を習得に努力する。
フランスに留学、パリでの大学生活
- 1891年(24歳)
フランス行きを決意、姉夫婦の住むパリに移る。
パリ大学(ソルボンヌ)に入学し、物理、化学、数学を学ぶ。 - 1893年(26歳)
物理の学士資格を得る。
学資が尽きていったんはパリでの勉強をあきらめたが、奨学金を得て勉学に励んだ。 - 1894年(27歳)
パリ市立工業物理化学高等専門大学で教職にあった、フランス人科学者ピエール・キュリーと出会う。
数学の学士資格を得る。
ピエール・キュリーとの結婚と共同研究
- 1895年(28歳)
ピエール・キュリーと結婚。 - 1897年(30歳)
長女イレーヌを出産。
医師である夫の父が出産を助けた。 - 1898年(31歳)
ピエールとの共同研究で、放射性元素ポロニウム、ラジウムを発見したことを論文で発表。 - 1900年(33歳)
ピエールがソルボンヌ医学部の教授に就任。
マリも女子高等師範学校に嘱託教師の職を得る。 - 1903年(36歳)
多忙と困窮から夫妻の健康状態は悪化、マリは第二子を流産する。
ピエールはリウマチの発作に苦しむ。
パリ大学で理学博士を授与される。
放射現象の共同研究における功績が讃えられ、ピエールと共にノーベル物理学賞を受賞。
マリは女性で初めての受賞者になった。
- 1904年(37歳)
次女エーヴを出産。
夫ピエールとの死別、二度目のノーベル賞受賞へ
- 1906年(39歳)
夫ピエールが荷馬車に轢かれる事故に遭い46歳で死去。
深い悲しみを乗り越え、パリ(ソルボンヌ)大学からのピエールの後任になってほしいという申し出を受諾。
マリはパリ大学で初めての女性教授になった。 - 1911年(44歳)
放射性物質ラジウムとポロニウムの発見が評価され、ノーベル化学賞を受賞。
多忙と心労が重なってうつ病と腎炎を患い入院。
翌年、腎臓の手術を受ける。 - 1914年(47歳)
第一次世界大戦が勃発。
空爆から守るために、純粋ラジウムをボルドーに移す。
X線撮影設備を備えた車で病院を回り、戦争による負傷者の治療に貢献した。
第一次世界大戦終結、そして死去
- 1920年(53歳)
キュリー財団が設立。ロスチャイルド家が資金提供で放射線治療の研究を支援する。 - 1921年(54歳)
ワシントンへ招待され、助手になっていた長女イレーヌと共に渡米。
当時のハーディング大統領からラジウムの寄贈を受ける。 - 1922年(55歳)
国際知的協力委員会 (International Committee on Intellectual Cooperation,;ICIC) のメンバーになる。
ICICはのちのユネスコの前身。 - 1934年(66歳)
健康状態が悪化。 - 7月4日、フランス東部のサナトリウムで死亡。
当時は放射線の危険性が知られていなかったので、防護が十分ではなかった。 - このことから、長年の放射性物質の研究による被曝、またはX線検査への立ち合いが原因ではないかと考えられている。
マリ・キュリーの功績
マリ・キュリーと夫のピエールは、さまざまな業績を残しています。
1903年 ノーベル物理学賞受賞
放射能の実験からα(アルファ)線、β(ベータ)線、γ(ガンマ)線を発見しました。
いくつかの元素から発される放射を「放射線」と名付け、また、そのような現象を起こす元素を「放射元素」と命名しました。
この放射現象に関する共同研究の功績を認められて、ピエールとマリはノーベル物理学賞(Nobel Prize in Physics)を受賞しました。
1911年 ノーベル化学賞受賞
ラジウムとポロニウムの発見と、ラジウムの性質および化学物の研究成果が評価されました。
この回はマリ・キュリー単独のノーベル化学賞(Nobel Prize for chemistry)受賞でしたが、受賞記念講演では、この研究は亡父ピエールとの共同作業であるとして、自分自身の業績とは区別してピエールの貢献に言及しました。
この受賞により、マリは史上初めてノーベル賞を2回、異なる分野で受けた人物になりました。
次に複数回ノーベル賞を受賞したのは、ノーベル化学賞(1954年)と地上核実験反対運動の業績によるノーベル平和賞(1962年)を受賞したアメリカの量子化学者・生化学者ライナス・カール・ポーリングですから、マリよりも半世紀ほど後のことです。
放射線に侵された命
放射線(radiation: 放射性同位体の崩壊に伴って放出される粒子線のこと)を浴びることによる危険は、当時まだわかっていませんでした。
しかし、1900年にドイツで放射線は生物組織に影響を与えるという報告が出されたあと、第一次世界大戦後には放射線による人体の被害が徐々に知られるようになっていました。
マリ・キュリーは、自分の研究所の研究員には手袋を使って肌を守るように厳しく指導したものの、自身は研究に没頭するあまり、放射性物質を素手で扱うこともあったといわれています。
マリ・キュリーの健康悪化
公には放射性物質の健康被害を認めることはなかったそうですが、亡くなる2年前くらいから体調を崩しています。
1932年に転んで骨折した右手首がなかなか治らず、頭痛や耳鳴りに悩まされ、1933年には胆石があることが判明、翌1934年には結核が疑われてサナトリウムに入っています。
そこで受けた血液検査では、骨髄の造血能力が低下して起きる、再生不良性貧血という結果が出ていました。
白内障のために、目はほとんど見えなくなっていたそうです。
明らかになった放射性の汚染
マリ・キュリーの死後、自宅はパリ原子物理学研究機関とキュリー団体が1978年まで使用していました。しかし、家のなかに残っている放射性物質の危険性が明らかになると、フランス政府の管理下に置かれるようになりました。
やっと除染作業が行われたのは1991年のことで、そこで当時のノートや研究資料が運び出されて公開されることになりました。
現在、マリ・キュリーのノートはフランス国立図書館で保管されています。そのノートをはじめ、マリ・キュリーの衣服や家具などはいまだに放射線を放っていて、防護措置を施された特別な箱に保管され、防護服を着て取り扱わなければならないことになっています。
今では、放射線が生物に影響を与える危険がわかってきたため、さまざまな形で防護も取られるようになっています。しかし、その害が明らかになるまでには、原因がわからないまま健康を害したり、命を落とした研究者も少なからずいたはずです。
これも、マリ・キュリーを含め、草創期に放射線の研究に情熱をもって取り組んだ研究者たちの功績によるものといえるでしょう。
マリ・キュリーの幼少期のエピソード
マリア(のちのマリ・キュリー)はどのような幼少期を過ごしたのでしょうか。伝えられているエピソードを集めてみました。
- マリアは幼いころから聡明でした。4歳にしてひとりですらすらと本を読むことができました。
- 昔話が好きで、よく空想にふけっていたそうです。何かを好きになると、夢中になるタイプでした。
- マリアが2歳上の次姉より早く本を読むので、姉はくやしがりました。機嫌をそこねた姉の様子に気づくと、マリアは「自分のせいだ」と泣き出すような、気持ちの優しい子どもでもありました。
- マリアの母親は、子どもたちがまだ小さいときに結核にかかりました。病気がうつってはいけないからと、母親からキスや抱擁をやしてもらえなかったことを、マリアは寂しく思っていました。母親はマリアが10歳のときに他界します。
- 成績が良かったため、飛び級をし、それでも学年首位の成績でした。
- マリアは、結核にかかった母親のために「自分の命を引き換えにおかあさんを治してください」と神に祈り続けました。願いむなしく母を亡くして以来、マリは不可知論者(神の存在そのものを否定するわけではなく、神の存在について確かな知識をもてないと主張するひと)になりました。マリアの父は無神論者でしたが、母は熱心なカトリック教徒でした。
- 肉親をつづけさまに亡くしたことから、マリアはわずか10歳で深刻なうつ病を患っています。8歳のときに長姉がチフスで他界し、10歳のときには母を結核で亡くなるという過酷な経験をしたからといわれています。小さな子どもにとっては耐え難い喪失体験だだったことでしょう。
マリ・キュリーと祖国ポーランドの苦難
ポーランドは、16~17世紀には「ポーランド・リトアニア共和国」としてヨーロッパで最大、そしてもっとも人口の多い国のひとつに数えられる国でした。
しかし、18世紀に入ると国力は衰え、近隣の強国ロシア、プロイセン、オーストリアによって3度にわたって国土が分割され(ポーランド分割)ます。そして、1795年の第三次分割によって国家が消滅してしまいます。
その後、1807年にナポレオンがフランスと同盟を結んだ「ワルシャワ公国」を建国します。しかし、ナポレオンがロシア遠征に敗北すると、ポーランドはロシア軍に占領されます。
ロシアによるポーランド占領
1815年のウィーン会議によって、ポーランドは今一度ロシア、プロイセン、オーストリアの3国間で分割されます。旧ワルシャワ公国の領土には「ポーランド立憲王国」が成立します。
当初はポーランド立憲王国の自治を認めていたロシア帝国は、皇帝による専制政治を強めます。ポーランド人は、ロシアからの独立を求めて何度も蜂起しましたが、武力で鎮圧され、民族運動は弾圧されます。この結果、多くのポーランド人が国外に亡命しました。
マリが生まれた1867年には、ポーランドはロシアの支配下に置かれた従属国でした。
「国なき民族」になったポーランド人
かつてはペテルブルグ大学で教えていた父の失職や一家の困窮、そしてマリアが次姉ブロスニワヴァを頼ってパリに向かった背景には、「国なき民族」としてのポーランド人の苦難がありました。
フランスで研究生活を送りながらも、マリは祖国を忘れたことはなく、発見した新元素にも「ポロニウム」(polonium)と名をつけます。これは、ポーランドのラテン語名 Polonia にちなんだ命名でした。
マリ・キュリーの名言
Be less curious about people and more curious about ideas.
人に好奇心をもつよりも、アイデアに好奇心をもちなさい。
We must have perseverance and above all confidence in ourselves.
We must believe that we are gifted for something and that this thing must be attained.私たちは、忍耐と、そして何よりも自分への自信をもたねばならない。
私たちは、何かのために才能を授けられているのだから、それを達成しなければならない、と信じるべきだ。
Nothing in life is to be feared, it is only to be understood.
Now is the time to understand more, so that we may fear less.人生に恐れるものはない、理解するだけ。
より理解に努めるならば、恐れがより少なくなるかもしれない。
I am one of those who think, like Nobel, that humanity will draw more good than evil from new discoveries.
私はノーベルのように、人類は新しい発見から、悪よりも善を描き出すと考えているひとりです。
マリ・キュリーの子どもたち
マリ・キュリーはふたりの娘を生んでいます。偉大な両親をもった娘たちの人生はどのようなものだったのでしょうか?
ノーベル化学賞を受賞 イレーヌ・ジョリオ=キュリー(長女)
長女のイレーヌは、母親と同じ化学の道に進みました。1920年に物理学と数学で学士号を取得しています。ラジウム研究所の研究員となり、母マリの指導を受けながら研究に励み、1925年には博士号を得ます。
この年、母の助手として務めることになったフレデリック・ジョリオに出会い、翌1926年に結婚します。イレーヌとフレデリックのカップルも、かつてのピエールとマリのように、夫婦で研究に取り組みました。
その努力の結果、世界初の人工放射性同位元素・リン30の合成に成功して、この夫婦も1935年にノーベル化学賞を受賞したのです。
しかしながら、白血病を患い、1956年に59歳の若さで亡くなってしまいます。死因は急性白血病で、長年の放射線への被爆が原因と考えられています。
伝記『キュリー夫人』を出版 エーヴ・キュリー(次女)
次女のエーヴは、一族で唯一文科系に進んだ女性でした。幼いころからピアノが得意だったそうです。
姉が研究に忙しいため、晩年のマリに付き添って世話をするなど、生活面をずっと支えました。
1934年にマリが亡くなった後は伝記を執筆し、1937年に『キュリー夫人』として出版、この本はやがて各国語に翻訳されて世界に紹介されました。またこの『キュリー夫人』は1943年に映画化もされ、多くの人たちに絶賛されました。
第二次世界大戦中、エーヴはドイツに占領されたフランスの解放のために力を尽くし、それがためにナチス・ドイツに協力したヴィシー政権下で市民権を剥奪されてしまいます。
エーヴは1954年にアメリカ人の男性と結婚し、以後アメリカに移り住みます。
放射線にかかわった研究者の家族がみな早くに世を去ったなか、エーヴは2007年に102歳で亡くりました。
まとめ
生涯に二度もノーベル賞を受けた初めての受賞者であり、初めての女性受賞者でもあった、マリ・キュリー。
マリの生涯には「女性で初めて」が何度も登場します。外国人という立場で、そして男性とは同等に女性の能力が評価されない時代に、マリはさまざまな偏見や差別に負けずに道を拓きました。
その人生は決して安楽なものではなく、祖国ポーランドは帝政ロシアの支配下にあったことから、父親が失職、貧窮のなかで長姉や母を幼いころに亡くしています。長じてフランスに渡り、研究と実生活の上でのパートナーを得ますが、最大の理解者・協力者であった夫も突然の事故で失ってしまいます。
しかし、肉親を失った悲しみや生活上の困難、健康問題など数々の苦難を乗り越えて、後世に残る業績を残しました。
強い信念のもとに研究に取り組んだ、マリ・キュリーの努力と貢献を、現代の科学や医療によって恩恵を受けているわたしたちは記憶していたいと思います。
Have no fear of perfection, you’ll never reach it.
完璧を恐れてはいけない。完璧などには到達できないのだから。
マリ・キュリー
シリーズ「世界の天才をクローズアップ・幼少期に迫る」は、さまざまな国・時代に生きた偉人の生涯を紹介する記事です。
特に子ども時代の家庭環境に光を当てて、偉業を成し遂げるまでの道筋を詳しく追う内容ですので、ぜひほかの記事もお読みになってください。