みなさん、「クマのプーさん」は好きですか?
あの大きな恐ろしいクマを、あんなにも愛らしく、誰からも好かれるキャラクターにしたディズニーの代表的な作品ですよね。
その物語の主人公の「クリストファー・ロビン」は実在していたことをご存じでしょうか?
さあ、子供のころに見た絵本やアニメを思い出しながら、世界的な愛されキャラクターが生まれた秘密に迫ってみましょう!
1.アラン・アレクサンダー・ミルンの生涯
アラン・アレクサンダー・ミルン(以下ミルン)は1882年、イギリスのロンドンの西北部キルバーンに、3人兄弟の末っ子として生まれました。
父方のほうは代々宣教師の家系で、ミルンが生まれたときは父親は私立の男子校の校長をしていました。
母親も教員をしていた教師一家に生まれたミルンは、兄のデビッド・バレット・ミルンと、ケネス・ジョン・ミルンとともに、父親の学校であるヘンリーハウスで育ちました。
その当時ヘンリー・ハウスの教師だったハーバード・ジョージ・ウェルズに大きな影響を受けてミルンは成長していきます。
1893年にウェストミンスタースクールへの奨学金を得て、ケンブリッジのトリニティカレッジ(ケンブリッジ大学を構成するカレッジの一つで、多くのノーベル賞受賞者や著名人を輩出している名門校)に入学する前に7年間勉強しています。
ケンブリッジに入学後、ミルンは弟のケントと一緒に学生雑誌「グランタ」の編集をしたり、初めての作品「ロンドンの恋人」を執筆しました。
そのころから作家を志したと思われます。
大学在学中から英国のユーモア誌「パンチ」(1841年に創刊された週刊風刺漫画雑誌)の記事を書き始め、その後パンチのアシスタントエディターになりました。
この時期に、ミルンは3つの小説と、18の劇を創作し、作家として独立します。
1913年にドロシー・ド・セリンコート(ダフネ)と結婚し、1920年に生まれた息子がクリストファー・ロビン・ミルンで、あの「クマのプーさん」のモデルとあると同時に、この作品はそのクリストファー・ロビンのために書かれました。
「クマのプーさん」のストーリーはミルンが住んでいたカントリーハウスのコッチフォールドファームが物語の舞台になっているそうです。
プーさんシリーズとともに、たくさんのミステリー小説も発表しています。
そして1956年、脳卒中が原因で74歳で亡くなりました。
2.アラン・アレクサンダー・ミルンの作品
- Winnie the Pooh 「クマのプーさん」
- The house at Pooh Corner 「プー横丁にたった家」
- When We Were Very Young 「詩集:クリストファー・ロビンのうた」
- Now We Are Six 「クマのプーさんとぼく」
ミステリー作品・その他
- The Red House Mystery 「赤い館の秘密」
- The perfect Alibi 「パーフェクト・アリバイ」戯曲
- Murder at Eleven 「ほぼ完ぺき」
- Toad of Toad Hall 「ヒキガエル館のヒキガエル」
- Once on a Time 「ユーラリア国騒動記」
など、いろんなジャンルの作品をたくさん残しています。
3.クマのプーさん誕生秘話
「クマのプーさん」はミルンの息子クリストファー・ロビンと、クリストファーが大切にしていたクマのぬいぐるみからヒントを得て作られた作品です。
父親のミルンは、クリストファーが子供部屋で、お気に入りの大きなクマのぬいぐるみと遊んでいる様子を観察し、そのほかのイーヨー、子豚、カンガとルー、トラのティガーを加えて冒険の話を作っていきました。
この物語の舞台は100エーカー(約4000㎡)の森で、実際にハートフィールドにあるアッシュダウンの森が物語になっています。
ここは、ロンドンから電車で一時間半くらいの、南イングランドの郊外イーストサセックス州のウィアルデン・ディストリクトにある小さな村です。
ここにミルン親子が住んでいたのですが、アッシュダウンの森は誰でも無料で立ちることができるとても広大な土地です。
プーさんとクリストファー・ロビンが友達と一緒に「棒投げ遊び」をする有名な桟橋「プー・スティック・ブリッジ」も、このアッシュダウンの森に実在します。
また、「ウィニー・ザ・プー」という名前の由来ですが、1914年、第一次世界大戦中に、カナダの軍獣医、ハリー・コルバーンが、親のいない子熊を購入し、その子熊を「ウィニー」と名付けられました。
その後そのウィニーは1919年にロンドン動物園に寄贈され、動物園でそれを見た息子のクリストファーが、自分のぬいぐるみに「ウィニー」と名前を付けたことがきっかけで、「Winnie the Pooh」となったということです。
これはなかなかの秘話ですね!
イラストレーター: アーネスト・ハワード・シェパード(E.H.シェパード)
「クマのプーさん」と切っても切れないのは、あの優しいタッチの挿絵ですが、この挿絵の作者はアーネスト・ハワード・シェパードで、ミルンが「パンチ」社で編集者をしていたころに、同社で風刺漫画を描いていたところ、ミルンと共同で「クマのプーさん」を作ったことが、大きな成功を収めたのでした。
シェパードは幾度もアッシュダウンの森を訪れて、木々や小川の様子などをスケッチしていたということです。
4.クリストファー・ロビン・ミルン
物語の主人公、クリストファー・ロビンのモデルになった、ミルンの実の息子クリストファーは、父のアラン・アレクサンダー・ミルンと母ダフネとの間に生まれた一人っ子でした。
4冊のプーさんシリーズを書き上げたころ、クリストファーはもう子供ではなくなっていて、ミルンもほかの作品で脚光を浴びようとしますが、社会はずっとこの親子に「クマのプーさん」のイメージを抱き続け、クリストファーは「プーさんのクリストファー・ロビン」というレッテルをずっと貼られて、学校ではいじめられながら、精神を患ったこともありました。
クリストファーは父と同じように作家を目指し、ケンブリッジ大学へと進学しますが、第二次世界大戦のため従軍し、戦後大学を卒業するも父親の名声が邪魔をして、作家として生きていくことが困難になります。
そのうち、自分が成功できないのは、自分を利用して名声を手に入れた父親のせいだと思うようになります。
そして1948年に両親の反対を押し切り結婚し、作家をあきらめて本屋を営むようになりました。
そしてしばらくの間、親子の断絶が続いてしまいました。
1956年に父親ミルンが亡くなったのを機会に、クリストファーは父が自分のために何を残したのかを探し始め、自分と向き合うようになります。
そして、1974年に、自分の過去と向き合い「クマのプーさんと魔法の森」を出版しました。
そこから、障害児として生まれた娘クレアのためにも、作家活動を開始し、拒否していたクマのプーさんの印税も、娘のために受け取ることにしました。
晩年は、クマのプーさんの中のクリストファーも、自分の人生の一部だと受け入れるようになり、1996年に安らかにこの世を去りました。
5.映画化された作品
- クマのプーさんシリーズ
ディズニーアニメ(1966~2011) - ヴィンイー=プーフー
ロシアのアニメ映画(1969~1972) - プーと大人になった僕
実写映画 ユアン・マクレガー主演(2018) - グッバイ・クリストファー・ロビン
クリストファー・ロビンの伝記映画(2017)
6.アラン・アレクサンダー・ミルンの名言
みんなが来るのを待ちながら、森のすみっこに居続けるわけにはいかない。たまには、自分からみんなのところにいかなくちゃ
長く離れ離れにならなくてもいいように、夢を見るんだと思う。もし、僕たちが互いの夢の中に出てくれば、いつでも一緒にいられるから
友達に会えない日は、一滴もはちみつが残っていない壺のようなもんさ
いつも覚えていてください。あなたは自分で思うより勇敢で、見た目より強く、そして考えているより賢い、ということを
どれも、心がほっこりする言葉の数々です。
まとめ
「クマのプーさん」は筆者の娘が幼いころ大好きで、何度も何度もビデオを再生させられ、歌と一緒に踊っていた記憶があります。
あんなに平和な、かわいらしい物語の裏に、「クリストファー・ロビン」の名前の呪いに苦しんだ親子の過去があったのには驚きです。
それでも最後は(ミルンが亡くなった後ではありますが)和解して、自分の中のクリストファー・ロビンを受け入れたことができたのも、この「クマのプーさん」が、父親ミルンの愛情から生まれたのだとわかったからでしょうし、それがこの作品の端々ににじみ出ているからだったのではないでしょうか?
きっと天国でもアッシュダウンの森で、親子と動物たちと一緒に仲良く過ごしている様子が目に見えるようです。