アイザック・ニュートン(Isaac Newton)は、17世紀のイギリスに生まれた科学者です。

その業績は物理学、天文学、数学と多方面におよび、著書『プリンキピア』(Philosophiae Naturalis Principia Mathematica 自然哲学の数学的諸原理)で近代科学の基礎を形づくりました。

ニュートンは、力学分野において、運動と力の関係を示した三つの基礎法則「運動の法則」を確立し、すべての物体間に普遍的に作用する引力を見出した「万有引力の法則」を発表したほか、数学分野では微積分法を発明するなど、偉大な業績を後世に残しました。

力の国際単位である「ニュートン」(N)は、質量1kgの物体に1m/s2の加速度を生じさせる力のことで、アイザック・ニュートンの業績にちなんで名づけられました。

複雑な家庭環境に育ち、親戚の援助に助けられながらも苦学したニュートンは、生涯独身で、常に研究のことを考える生活を送りました。研究に異議を申し立てる者には猛反撃をする激しい性格だったそうですが、後には国会議員になり、造幣局長官を務めるなど、研究以外の分野でも社会的に高い地位に就き成功を収めます。

科学者として輝かしい業績を残し、社会的な地位と名声を手中にしたニュートンは、幸せな一生を送ることができたのでしょうか?

さまざまな分野で活躍した天才、ニュートンに迫ります!

1.ニュートンの略歴 (年・月はユリウス暦)

  • 1642年(誕生)12月25日、リンカンシャーのウールスソープに誕生。誕生前に亡くなった父アイザック・ニュートンにちなんで命名された。
  • 1645年(3歳)母親ハナが司祭と再婚したため、ニュートンは母方の祖母と暮らし始める。
  • 1654年(12歳) グランサムのグラマースクールに入学、下宿先の薬局で科学実験に興味をもつ。
  • 1656年(14歳) 再婚相手の死去に伴い、母がニュートンの異父弟妹とともに実家に戻る。
  • 1661年 (18歳)ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学。授業料や食費を免除される給費生になり、講師の手伝いをして働く
  • 1665年 (22歳)トリニティ・カレッジ卒業。万有引力を発見する。また、無限小の概念に基づく微分法発見。流率法の概念確立など次々と研究の成果を上げる。
  • 1665~1666年(22~23歳) ロンドンでペストが大流行し、大学が閉鎖される。ニュートンはウールスソープに避難し、しばらく故郷で暮らす。
  • 1668年(24歳) ニュートン式反射望遠鏡を製作。マスター・オブ・アーツとなる。
  • 1669年(25歳) 恩師アイザック・バローのあとを継いで、ケンブリッジ大学のルーカス教授職(数学に関連するポスト)に就任し、そこで光学を講義する。
  • 1671年(27歳) 「流率法と無限級数」の発表。
  • 1672年(28歳)反射望遠鏡製作の業績が評価されて、イギリスの学会ロイヤル・ソサイエティー(王立協会)会員に推薦される。
  • 1675年(31歳)「光と色の理論」を発表する。微分積分法を発見。
  • 1679年(35歳) 母ハナが死去する。
  • 1687年(43歳) 『プリンキピア』刊行
  • 1688年(44歳) 大学選出の国会議員(下院)となり、ロンドンに転居する。
  • 1696年(52歳) 王立造幣局監事となる。
  • 1699年(55歳) 王立造幣局長官に昇格する。
  • 1703年(59歳) ロイヤル・ソサイエティー会長になり、死去までつづける。
  • 1705年(61歳) 自然科学における業績に対してナイト(サー)の称号を授与される。
  • 1727年(83歳) 3月20日死去。国葬によって、ウェストミンスター寺院に埋葬される。

2.ニュートンの功績

2.ニュートンの功績

万有引力の発見

ニュートンの最大の功績は「万有引力【Universal gravitation】の発見」といえます。

ニュートンの前に、天文学者のヨハネス・ケプラーによって発見された「太陽と惑星の間にある種の力が働いている」という法則をもとに、「物体には必ず引力が生じ、その力は物体の質量に比例し、かつ物体総合距離の2乗に反比例する」という法則を導きました。

引力の存在には、「リンゴの木からリンゴが落ちるのを見てひらめいた」というニュートンの有名なエピソードがありますが、それを裏付ける記録は実際には残っていないようです。しかし、日常生活のなかでも、常に物理の法則を見い出そうとしていたニュートンなので、リンゴがきっかけで万有引力を発見したというのもあり得る話だったのかもしれません。

微分積分法を作った

私たちが高校数学で学習する微分【differential calculus】、積分【integral)は、ニュートンによって発見されました(同時期にドイツの数学者、ライプニッツも発見していたため、どちらの発見が先かについて激しい議論がありました)。

この法則で万有引力の法則を証明する計算が可能になり、ケプラーの三法則が導き出されるなど、物理学はこれを機に爆発的な進化を遂げます。

ニュートン力学

「力学【Mechanics】」は、物理学の一分野で、物体と物体の間に働く力と、運動との関係を扱う学問です。私たちが中学・高校で勉強する、エネルギー保存法則、作用・反作用の法則、運動方程式などがこれに当たります。

また、現在私たちが日常的に使っている「慣性」(inertia)という言葉も、「物体が外からの力を受けない限り、その速度を維持し続けようとする性質」を説明する際に、ニュートンが使ったものでした。

3.幼少期のエピソード

3.幼少期のエピソード
  • ニュートンの父は、ニュートンが生まれる2か月前に病気で他界してしまいました。母ハナは、生まれた子どもを、その父と同じ「アイザック・ニュートン」と名付けました。家は100年も続く裕福な農家でした。
  • ニュートンは出産予定より早く生まれた未熟児で、1リットルサイズのマグカップに入るほど小さかったため、大きくなるまで育たないだろうと思われていたといわれています。
  • ニュートンが3歳のとき、母親が41歳年上の牧師と再婚したため、ニュートンは母親と別れ、母方の祖母に預けられて育ちます。ニュートン少年は、同年代の友達と遊ぶよりも、ひとりで過ごすことが多かったそうです。
  • 母の再婚相手であるニュートンの継父は、妻がニュートンに会うことを許さなかったといいます。生まれる前に父を亡くし、母とも会えないニュートンは、農園の家畜と遊んだり、山や川などの自然に触れて寂しさをまぎらわせていました。
  • ニュートンを育てた祖母や親戚はニュートン少年の賢さに気づき、勉強をさせようとグラマースクールに通わせました。しかし、友達とかかわることが苦手な内気なニュートンは学校でいじめにあい、体が小さいことをほかの子どもにからかわれるなど、つらい思いをします。あるとき、我慢の限度を超えたニュートンが怒りをぶちまけ、いじめっ子をやっつけたことで、自分に自信をもちました。
  • ニュートンが14歳のときに母の再婚相手が亡くなり、母ハナは3人の異父弟妹とともに実家に戻り、ニュートンと一緒に暮らし始めます。ニュートンに農家を継いでほしかった母親は勉学をやめさせますが、このことでニュートンは母を憎悪し、また継父と母との間に生まれた弟妹たちへの強い嫉妬心から、「お母さんもきょうだいも殺してやる!」などと口走るようになりました。
  • ニュートンは農業の手伝いをしながらも、水車の仕組みに興味をもち、実際に水車を自作するなど自分で研究を進めていました。
  • ニュートンが12歳のころ、グラマースクールに通うために下宿していた家は薬局でした。ここでニュートンは薬の調合などに強い興味を示し、薬剤師の手伝いをします。下宿先の屋根裏に「自然と人口の不思議」という本を持ちこみ、いいアイデアが浮かぶと、文章や絵を書きつけて壁いっぱいに張りめぐらしていたそうです。

ニュートンは女嫌い?

ニュートンは生涯独身を貫きました。しかし、18歳のときに下宿先クラーク家のの養女であるアン・ストーリーという女性と婚約していたことがあり、結婚するまでには至らなかったようです。

そのほかには浮いた噂はなく、一般に「女嫌い【a woman-hater, misogynist】でけんかっ早いニュートン」として知られたようです。

幼いころに母親が再婚し、いわば捨てられるように親戚の家に預けられ、やっと母と一緒に暮らせるようになったときには3人の異父弟妹が一緒でした。生まれる前に父を亡くしたニュートンは、生涯、両親に甘えたことがなかった、といっても過言ではないようです。

ニュートンは、母親に対して暴言を吐いたり、仕事の上でも数々の激しい対立をし、ライバルを蹴落とすときには激しい怒りをみせました。

両親からの愛情に恵まれなかったさびしさは、女性との愛情関係をもつことでは解消されなかったようです。晩年は、深紅の部屋にひとりでこもって暮らしていたそうです。

犬好きだったニュートンのエピソード

女性嫌いだったニュートンですが、実はかなりの愛犬家だったようです。ポメラニアンの「ダイヤモンド」を飼っていたときのエピソードです。

当時51歳だったニュートンは、20年にわたる実験の結果を論文にまとめていました。

愛犬ダイヤモンドを家に残して外出したとき、ダイヤモンドが机にぶつかった拍子に、机の上に置いてあった論文が暖炉に落ちて燃えてしまいました。

大切な論文が燃えてなくなり、ニュートンはひどく落ち込みました。

しかし、「お前は何も知らないんだからな。仕方ない」と言って、ダイヤモンドの頭をなでたといいます。

その後、その論文を書き直すのに一か月もかかったそうです。

人とのかかわりを避け、常に競争心の塊であったニュートンでしたが、愛犬だけには優しい気持ちをもつことができたようです。

4.ニュートンの格言

4.ニュートンの格言

もし私が価値ある発見をしたのであれば、それは才能ではなく忍耐強く注意を払っていたことによるものだ。
If I have ever made any valuable discoveries, it has been owing more to patient attention, than to any other talent.

私が遠くを見ることができたのは、巨人たちの肩に乗っていたからです。
If I have seen further, it is by standing on the shoulders of giants.

神は、すべてを数と重さと尺度から創造された。
God created everything by number, weight, and measure.

我々はあまりにも多くの壁を作るが、懸け橋の数は十分ではない。
Men build too many walls and not enough bridges.

まとめ

広範な領域における稀にみる大天才、といわれたニュートンでしたが、自分に反対する者はときに卑劣な手段を使ってでも排除した、という逸話が多く残っています。

父の顔を知らず、そして一番親の愛情を必要とする幼少期に母親が再婚して、親戚の家に預けられて育ったこと、そしてやっと母と再会できたときには、他人も同然の異父弟妹も一緒だったことなど、なんと複雑な家庭環境で人生を送ってきたのでしょうか。

もともとの素質に加えて、ニュートンの業績は本人のたゆまぬ努力に支えられています。多方面の研究によって偉大な業績を残したエネルギーは、少年時代の満たされなさを埋めるためのものだったのかもしれません。

母親の再婚・別居に対して複雑な感情を抱いていたニュートンも、母親が年老いてからは最期を看取るまで世話をしたといいます。

ニュートンの母が再婚した理由には、ニュートンを養育するための財政的な事情もあったといいますから、年を重ねて社会的な地位を得たニュートンには、そうした周辺的な事情をおもんばかる余裕ができたのでしょうか。

現在の科学の礎を築いたのは、「孤高の科学者」ニュートンが発見した法則の数々でしょうから、彼の人生を称えたいと心から思います!

プラトンは私の友、アリストテレスは私の友。しかし、最大の友は真理である。
Plato is my friend, Aristotle is my friend, but my best friend is truth.

ーアイザック・ニュートン