ベンジャミン・フランクリン【Benjamin Franklin】の業績を知らないひとでも、もしかしたらどこかでフランクリンの顔を見かけているかもしれません。「アメリカ合衆国建国の父」としての功績を称えて、没後270年経った現在もアメリカの100ドル紙幣に肖像が描かれているからです。
それほどまでにアメリカで尊敬されているベンジャミン・フランクリンとは、どのような人物だったのでしょうか。
政治家・外交官として知られるベンジャミン・フランクリンですが、実業家、文筆家、科学者、発明家としての顔をもっています。
各方面で多くの業績を残した事実から、博識なのは明らかで、学生時代は成績のよい優等生だったのかと思いきや、家庭の事情でわずか10歳までしか学校に通えず、必ずしも恵まれた子ども時代ではなかったようです。
しかし独学で大変な範囲と量の勉強をこなし、勤勉かつ真面目であり、
同時代でもっとも偉大なアメリカ人で、アメリカ社会のあり方を発明した、もっとも影響力のある人物
とも評されています(Benjamin Franklin: Wikipedia)。
「成功は一日にしてはならず」(Success doesn’t happen overnight) で、生涯にわたって努力のひとであった、ベンジャミン・フランクリンの人生をのぞいてみましょう。
アメリカやイギリスのひとと話題にするときに役立つように、固有名詞の英語表記を添えておきます。
ベンジャミン・フランクリンの略歴
- 1706年 (0歳) アメリカ、ボストンのミルク・ストリートで17人きょうだいの15番めの子として生まれる。父のジョサイア・フランクリンはろうそくを製造していた。
- 1716年 (10歳) 学校教育を終える。
- 1718年(12歳) 兄ジェームスのもとで見習いを始める。兄は『ニュー・イングランド・クーラント』紙の印刷出版をしていた。
- 1723年(17歳) 何度かのけんかの末、兄と絶縁。ボストンを出て、フィラデルフィアで印刷工の職を得る。
- 1724年(18歳) 知事の勧めでロンドンに渡り、植字工として働く。
- 1726年(20歳) フィラデルフィアに戻り、印刷業再開。アメリカ初のタブロイド紙を発行。
- 1731年(25歳) アメリカ初の公共図書館、フィラデルフィア組合図書館 (the Library Company of Philadelphia) を設立。
- 1732年(26歳) 格言集『貧しきリチャードの暦』(Poor Richard’s Almanack) を発表。国内外で有名になる。
- 1737年(31歳) フィラデルフィアで郵便局長に就任する。
- 1743年(37歳) アメリカ学術協会を設立。
- 1746年(40歳) 2年にわたる研究により、雷が電気現象であることを証明。
- 1749年(43歳) のちのペンシルバニア大学の前身フィラデルフィア・アカデミー(Academy and College of Philadelphia)創設に協力する。このころ避雷針を考案。
- 1751年(45歳) 書簡集『電気に関する実験と考察』刊行。
- 1754年(48歳) イギリスとフランスの対立が激化するなか、オールバニ会議 (Albany Congress)で植民地の連合案を立案。
- 1761年(55歳) ガラス製のハーモニカを発明する。
- 1764年(58歳) その後11年間、ペンシルベニアの代理人としてイギリスに駐在。
- 1776年(70歳) アメリカ独立宣言 (United States Declaration of Independence) の起草委員となる。パリに一時滞在し、パリでフランスとアメリカ植民地との同盟条約の締結。
- 1783年(77歳) フランスとアメリカの通商条約の締結に尽力。アメリカ・スウェーデン友好通商条約を終結する。
- 1785年(79歳) ペンシルベニア議会の議長を3年間務める。
- 1787年(81歳) 合衆国連邦憲法制定会議に出席する。
- 1790年(84歳)4月17日 フィラデルフィアで死去。国葬が執り行われた。フランクリンの死去を受けて、アメリカ議会は1ヵ月間、フランス国民議会は3日間喪に服した。
政治家としての業績
ベンジャミン・フランクリンが生まれた当時のアメリカは、イギリスの植民地でした。
植民地時代のアメリカ
イギリスが建設したコロニーは「十三植民地」(Thirteen British Colonies in North America) とよばれ、それぞれに政府をもっていました。
自然条件や主な産業が異なる十三植民地は、下記のように大きく3つに分けられていました。
- 「北部ニューイングランド植民地」(New England Colonies)
「中部植民地」(Middle Colonies)
「南部植民地 (Southern Colonies)
フランクリンが生まれたボストンは「北部ニューイングランド植民地」のひとつ、マサチューセッツ湾直轄植民地の中心都市で、清教徒(ピューリタン)が建設したところでした。
兄のもとを離れたフランクリンは、「中部植民地」のペンシルベニア植民地に移り住みました。フィラデルフィアに拠点を移したフランクリンは印刷・出版業で成功を収め、次第に政界でも活躍を始めます。
ペンシルベニア植民地の代表として
フランクリンは1751年から1764年までペンシルベニア植民地議会の議員を務めました。
1754年に開催された「オールバニ会議」(Albany Congress)では、植民地間の連合「オールバニ連合案」を立案します。
また、ペンシルベニア植民地の郵便総局長にも就任しています。
1750年代半ばから1770年代半ばには、植民地アメリカの代表として、長くイギリスに滞在しました。
ペンシルベニア植民地議会の代表として1757年から渡英し5年にわたって滞在、いったん帰国した後も、1764年から1775年にかけてイギリスに駐在し、ペンシルベニア植民地の代理人を務めます。
1765年、フランクリンはイギリス議会において、「印紙税法」(Stamp Act) に植民地側の立場から反対意見を述べました。
この法律は、植民地の公文書や証書、新聞やカレンダー、パンフレットなどの印刷物に印紙を貼付させ、植民地に駐留する軍隊の費用を捻出することを意図したものでした。植民地側の同意なく制定され、「代表なくして課税なし」(No Taxation Without Representation) として、イギリスに対する激しい抵抗運動を引き起こすきっかけのひとつになりました。
アメリカ独立戦争
アメリカの13植民地は、1775年からイギリスと戦闘状態に入ります。
フランクリンは1775年にアメリカに帰国した後、初代アメリカ合衆国郵政長官(the first United States postmaster general) になり、1776年まで務めました。
植民地だったアメリカは、イギリスからの独立を獲得するために、ヨーロッパの国ぐにからの支援を必要としていました。そこで、大陸会議 (the Continental Congress) を組織してイギリスに対抗します。
フランクリンは1776年、第2回大陸会議が派遣した、フランスに経済・軍事援助を求めるための使節団に加わってパリに赴き、フランスとアメリカ植民地との同盟条約の締結に成功しました(1778年)。
フランクリンはまた、独立宣言起草委員としてトマス・ジェファーソン(のちの第3代アメリカ大統領)を補佐します。独立宣言 (Declaration of Independence) は大陸会議での採択を経て1776年7月4日に公布されました。
アメリカの独立記念日 (the Independence Day) は、大陸会議で独立宣言が採択されたこの日を記念して祝日になっています。
独立後のアメリカ
1783年、イギリスは「パリ条約」でアメリカの独立を承認します。
フランクリンは、パリ条約の締結後も、フランスとアメリカとの通商条約の締結に奔走しました。
1785から1788年までペンシルベニア議会の議長を務める一方、1787年には合衆国憲法制定会議に出席、対立する意見の調停に大きな役割を果たし、新生国家アメリカの憲法は無事制定に漕ぎつけました。
そのほかフランクリンは、1779年から1785年にかけて初代のフランス駐在大使、1782年から1783年にはこれも初代のスウェーデン全権公使などを歴任、外交官としても活躍しました。
科学者としての功績
略歴でも明らかな通り、ベンジャミン・フランクリンは印刷・出版の分野で成功し、政治家・外交官としても業績を残しました。
同時に、科学者として、そして発明家としても大きな足跡を残しています。
大学などで専門教育を受けたわけではなく、すべて本を読んでの独学によるものだといいますから、驚くべき能力と言わざるを得ません。
主な科学研究・発明
避雷針の発明・雷の帯電実験
雷の実験は、小学生向きの本などにも挿絵付きで描かれているほど有名ですが、雷雨のなか、糸の先に電気を蓄える瓶をつないで凧(たこ)を上げて行う、危険を伴った実験でした。
フランクリンは雷の研究に関連して、雷から建物を守る避雷針(lightning rod)を発明しています。
ロッキングチェアの考案
フランクリンが考案したロッキングチェアはうちわつきで、いすの動きと連動してうちわが動き、ハエを追い払ってくれるものでした。
なお、フランクリンはしばしばロッキングチェアの「発明者」と紹介されることがありますが、ロッキングチェアそのものは、フランクリンが誕生する前、18世紀初めには北アメリカのイギリス植民地で使用されていたといわれています。
マジックハンドの発明
フランクリンは、高いところにある本を取るために「長い腕」を開発しました。
のちに工業用に発展するマジックハンドは、マニピュレーター(manipulator)ともよばれます。
フランクリン・ストーブの発明
フランクリン・ストーブ (Franklin stove) は鉄製で、前面以外、上下左右と背面の5面を鉄板で囲んだ構造のストーブです。当時の暖房の主流だった暖炉よりも暖房効率が高く、煙も少なく、評判になりました。
フランクリンが発明した後、フランクリン・ストーブの改良型が出て普及するようになり、「ペンシルベニア式暖炉」または「循環式ストーブ」ともよばれるようになりました。
グラスハーモニカの開発
水を入れた薄いガラスのコップのふちを湿った指でこすると、水の量によって違った音が出ます。フランクリンは、その原理を利用して armonica(アルモニカ)という楽器を開発しました。
遠近両用めがねの発明
遠近両用めがね (bifocal glasses) とは、焦点がふたつあり、上半分が遠いところ、下半分が近いところを見るように作られためがねです。
尿道カテーテルの改良
フランクリンの関心の広さは、尿道カテーテル (urinary catheter) の改良にもみられます。
膀胱から尿を導くカテーテルは、当時金属製の固い管でできていました。患者にとっては使用に痛みを伴う装置で、腎臓を患っている兄の苦痛をみたフランクリンは、少しでも痛みを少なくするためには、もっと柔軟に動く素材でつくれないかと銀細工師に相談しました。
その後、カテーテルは改良が進み、現在は用途に合わせてさまざまな素材・形のものがありますが、フランクリンの改良型はその先ぶれとなるものだったといえます。
そのほか、フランクリンは多数の発明をしました。
しかし実業家として成功を収めたフランクリンは、自身の発見・発明による特許は取らず、それで利益を得ることはありませんでした。
「わたしたちは他人の発明によって多大な利益を享受しているのだから、自分の発明を無償で寛容に他人に奉仕する機会を喜ばなければならない」という考えをもっていたそうです (Benjamin Franklin: Wikipedia)。
幼少期のエピソード
- フランクリンは、17人のきょうだいのなかで15番目の子どもとして生まれました。家が貧しく、子だくさんだったため、10歳までしか学校に通えませんでした。
- 13歳のときに、働きながら独学で文章を勉強して、兄が発行していた新聞『ニュー・イングランド・クーラント』( The New-England Courant) の記事を書き、記者や編集者として活躍しました。
- 自分が書いた記事だとわからないように、兄が読むように印刷所にこっそり匿名の記事を置き、それを読んだ兄は弟ベンジャミンが書いたものと知らずに新聞に掲載していたそうです。
- 自由主義的な論調によって『ニュー・イングランド・クーラント』が発行禁止の処分を受け、兄が投獄されていた期間には、フランクリンが代わりの発行人を務め、新聞の発行を続けました。
- 幼少のころからチェスが大好きで、相当の腕前だったようです。のちに「チェスの王道」というコラムを書いています。
- 7歳のころ、ほかの子どもが吹いている笛の音色に魅せられて、ポケットにある全財産をはたいて、その笛を譲ってもらいました。家に帰って大喜びでその笛を吹いていると、親から「その笛の値段はお前が払ったお金の4分の1の価値しかない」と知らされ、大きなショックを受けました。それが彼の経済観念を変えたエピソードです。
- 父が営んでいたろうそく製造の職人たちの暮らしを観察し、自給自足はお金を節約できるだけでなく、大きな幸せにつながるという心情をもつようになりました。
- 商売人だった父親は「商売を学ぶのに学問はいらない」という主義でした。しかしフランクリンは、幼いころからお小づかいのほとんどを本に費やすほどの本の虫でした。
ベンジャミン・フランクリンの「十三徳」
苦学したベンジャミン・フランクリンは、子どものころから勤勉で節約家でした。
必ずしも恵まれた環境に生まれたわけではないフランクリンが、いろいろな分野で成功を収めることができたのは、20代のころから続けてきた守ってきた習慣があります。
これが「フランクリンの十三徳」(Franklin’s Thirteen Virtues) という、有名な格言&教訓になっています。
①節制ーTemperance
「飽くほど食うなかれ。酔うほど飲むなかれ。」
Eat not to dullness and drink not to elevation.
②沈黙ーSilence
「自他に益なきことを語るなかれ。駄弁を弄するなかれ。」
Speak not but what may benefit others or yourself. Avoid trifling conversation.
③規律ーOrder
「物はすべて所を定めて置くべし。仕事はすべて時を定めてなすべし。」
Let all your things have their places. Let each part of your business have its time.
④決断ーResolution
「なすべきことをなさんと決心すべし。決心したることは必ず実行すべし。」
Resolve to perform what you ought. Perform without fail what you resolve.
⑤節約ーFrugality
「自他に益なきことに金銭を費やすなかれ。すなわち、浪費するなかれ。」
Make no expense but to do good to others or yourself: i.e. Waste nothing.
(*i.e.・・・すなわち、言い換えれば)
⑥勤勉ーIndustry
「時間を空費するなかれ。常に何か益があることに従うべし。無用の行いはすべて断つべし。」
Lose no time. Be always employed something useful. Cut off all unnecessary actions.
⑦誠実ーSincerity
「詐りを用いて人を害するなかれ。心事は無邪気に公正に保つべし。口に出すこともまた然るべし。」
Use no hurtful deceit. Think innocently and justly; and, if you speak, speak accordingly.
⑧正義ーJustice
「他人の利益を傷つけ、あるいは与うべきを与えずして人に損害を及ぼすべからず。」
Wrong none by doing injuries, or omitting the benefits that are your duty.
⑨中庸ーModeration
「極端を避けるべし。たとえ不法を受け、憤りに値すと思うとも、激怒を慎むべし。」
Avoid extremes. Forebear resenting injures so much as you think they deserve.
⑩清潔ーCleanliness
「身体、衣服、住居に不潔を黙認すべからず。」
Tolerate no uncleanliness on body, clothes or habitation.
⑪平静ーTranquility
「小事、日常茶飯事、または避けがたき出来事に平静を失うことなかれ。」
Be not disturbed at trifles, or at accidents common or unavoidable.
⑫純潔ーChastity
「性交はもっぱら健康ないし子孫のためにのみ行い、これにふけりて頭脳を鈍らせ、身体を弱め、または自他の平安ないし信用を傷つけるがごときことあるべからず。」
Rarely use venery but for health or offspring. Never to dullness, weakness, or the injury of your own or another’s peace or reputation.
⑬謙譲ーHumility
「イエスおよびソクラテスに見習うべし」
Imitate Jesus and Socrates.
(出所:Benjamin Franklin:Wikipedia)
どうでしょう、「恐れ入りました」という気持ちになりませんか?
ベンジャミン・フランクリンの死後に発表された自伝『ベンジャミン・フランクリンの回想』(フランス語版)、『ベンジャミン・フランクリンの生涯と著作』(英語版)によれば、フランクリンはひとつの徳目に一週間ずつを充て、一年(52週間)に4回、この徳目を繰り返して実践したそうです。
この仕組みを考えだしたのが22歳、今でいう大学生くらいの年齢ということですから、間違いなく非凡な若者ですし、身につける意図で自らに実践を課した点で、強固な意思を感じます。
ベンジャミン・フランクリンへの日本での評価
政治家・外交官のみならず、実業家、文筆家、科学者、発明家として業績を残したベンジャミン・フランクリンは、日本でも高い評価を受けました。
明治時代を迎えた日本では、新しい国アメリカは、めざすべきひとつの目標であり、イギリスの植民地から独立を成し遂げた功労者として、ベンジャミン・フランクリンは知られ、自伝の翻訳や、それをもとにした伝記も発行されました。
前項で紹介した「フランクリンの十三徳」も日本に伝えられ、宮中でも講じられました。大いに感銘を受けた昭憲皇太后(明治天皇の皇后)が、フランクリンの13のうち12徳目をうたった和歌が伝えられています。
たとえば、「節制」は以下のように詠まれました。
花の春もみぢの秋のさかづきも
ほどほどにこそくままほしけれ
(出所:十二徳の御歌 明治神宮)
さらにこの歌が華族女学院の校歌になり、国定教科書になり、という具合で、ベンジャミン・フランクリンは明治日本で手本とすべき人物として知られていくことになります。
まとめ
貧しく子だくさんの家庭に生まれて苦労をしたからこそ、ひとりでコツコツと勉強を続けたベンジャミン・フランクリンは、努力と実践の価値を知るひとでした。
特に「フランクリンの十三徳」を読むと、自分はいかに時間や機会を無駄に逃しているのかとはずかしくなりますが、こうした努力の積み重ねと、節度ある生活を徹底的に実践した結果が彼の業績を生み出したのでしょう。
「努力に勝る天才なし」という言葉は、まさしくベンジャミン・フランクリンのためにあるのだと思います。
Never leave that till tomorrow which you can do today.
今日できることを明日に延ばすな。ーベンジャミン・フランクリン
シリーズ「世界の天才をクローズアップ・幼少期に迫る」は、さまざまな国・時代に生きた偉人の生涯を紹介する記事です。
特に家庭や子ども時代の環境に光を当てて、偉業を成し遂げるまでの過程を詳しくみる内容ですので、ぜひほかの記事もお読みになってください。