童話は、字義の通り、子どものための物語のことです。伝説やおとぎ話、教訓を含む説話など「おはなし」の総称でもあります。
ヨーロッパの童話には、日本人のわたしたちになじみがない、「お姫様」や「王子様」、「召使い」など「お城のなかの世界」を舞台に展開するものが多いような気がします。
昔のヨーロッパの王侯・貴族のファッションは華やかで、従者や使用人たちに支えられたライフスタイルは豊かな上に安楽であり、現在でもわたしたちが憧れる要素がたくさん詰まっています。
フランスの都、パリ出身のシャルル・ペローによる童話は、いっそうその特徴を備えており、おはなしそのものの面白さと共に、人気が高い理由なのかもしれません。
ペローの優雅なおはなしの世界を訪ねてみましょう!
シャルル・ペローの生い立ちと略歴
裕福な家の末っ子として誕生
シャルル・ペロー(Charles Perrault)は、1628年、フランスのパリで父ピエールと母パケットの間に生まれます。
父親のピエールは司法に関係する仕事をしていて、シャルル(シャルル・ペロー)は裕福な家の7人きょうだいの末っ子として、周りから愛されて育ちました。
シャルルは、幼いころから勉強好きで、学校ではいつもトップクラスの成績を収めていました。
フランスでも有名なエリート校オルレアン大学に進んで法律を学び、ゆくゆくは父親の後を継ぐ法律家になろうと勉学に励みました。
17世紀当時、フランスで高等教育を受けるのはとてもハードルが高く、ほんの一握りの、選ばれたひとだけが進む道でした。オルレアン大学は、14世紀にローマ教皇クレメンス5世によって設立された大学で、中世から法律分野の研究で知られていました。
シャルルは小さいころからラテン語の勉強を始め、古代ギリシャ(紀元前12世紀から2世紀ごろ)・古代ローマ時代(紀元前8世紀から5世紀)の古典まで読むことができたそうです。
ラテン語は古代ローマ帝国の公用語として使われていましたが、ローマ帝国崩壊後も、文語としてはヨーロッパ世界の共通語でした。ローマ・カトリック教会では現在も公用語になっていて、古い起源をもつ、学術や宗教で用いられることばです。
シャルルは恵まれた環境で、高い教育を授けられました。他のきょうだいもそれぞれの分野で名を残していて、兄のピエール(1608年生まれ)は科学者、クロード(1613年生まれ)は物理学者兼アマチュアの建築家、ニコラス(生年不明)は神学者になりました。シャルルを含めて「ペロー四兄弟」とよばれることもあります。
弁護士になり、有力政治家の信任を得る
ペローは念願かなって、1651年に弁護士になりました。しかし、弁護士としてはほとんど活躍しないまま、フランスの宮廷で仕事をするようになります。のちに財政総監(事実上の宰相)になる政治家、ジャン=バティスト・コルベール(Jean-Baptiste Colbert)がペローの文章の巧みさを評価し、信任するようになったからです。
当時のフランス宮廷には、ルイ14世が君臨していました。ブルボン王朝のもっとも栄えた時代を築いたことから、後に「太陽王」とよばれるようになった王は、父ルイ13世の死去によって4歳で王位を継承します。1654年に戴冠し、それまで王を補佐してきた宰相マザランが1661年に死ぬと、王は君主自らが政務をみる親政を開始します。
そして重用されたのがコルベールであり、コルベールに仕えていたペローだったことになります。
芸術分野で広く活躍
ペローには芸術的才能があり、美しいものを好みました。ルイ14世の依頼によってタペストリーをデザインしたり、1668年に発表した著作『絵画』ではルイ14世の最初の画家、シャルル・ル・ブランを称賛したりと、法律以外にもマルチな才能を開花させました。
また、コルベールの知遇を得ている立場を生かして、兄のクロードがルーブル宮殿東のファサードを設計に参加できるようにしました。ルイ14世は、代々のフランス王が王宮として使ってきたルーブル宮殿を使わずに、ベルサイユ宮殿に移ることを決めました。そのため、ルーブル宮殿は、その後何度かの増築・改修を経て、フランス王室が保有する美術品を保管・展示するギャラリーになります。
当初宮廷は、ルーブル宮殿改修のために、ローマから著名な建築家ジャン・ロレンツォ・ベルニーニを招聘しました。
しかし、彼の設計案はフランス人の意向に沿うものでなかったばかりでなく、建物全体の外観を統一するためには、それまでの竣工(しゅんこう)部分の取り壊しを必要とするものであったため、彼の帰国後その提案は退けられて、改めてルイ・ルボー、シャルル・ルブラン、クロード・ペローClaude Perrault(1613―88)の3人からなる委員会が東部前面の設計にあたり、1674年に完成された。
―「ルーブル宮殿」小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
ルーブルが美術館になるのは、1793年に「中央美術館」として開館してからですが、ペロー兄弟も、現在のルーブル美術館の基礎づくりに貢献した人びと、といえます。
シャルル・ペローはまた、コルベールの推薦により、1671年に「アカデミー・フランセーズ」(l’Académie française)の会員にも選出されました。
アカデミー・フランセーズは、フランス語の保存・統一を目的にする、フランスの国立学術団体です。「アカデミー‐フランセーズ国語辞典」(フランス語)の編集・改訂を担う権威ある団体で、会員数は40人と定められています。会員資格は終身なので、会員が死亡した場合にのみ欠員が生じ、現会員の推薦と選挙によって新会員が選ばれる仕組みです。
権威あるアカデミー・フランセーズの会員になることは、「フランス国民最高の栄誉」ともいわれています。最近では、ペルー出身のノーベル文学賞作家マリオ・バルガス・リョサ氏が選出されて話題になりました。
フランスには国立のアカデミーであるフランス学士院(Institut de France)があり、アカデミー・フランセーズ、フランス文学院、フランス科学院、フランス芸術院、フランス人文院の5つで構成されています。アカデミー・フランセーズはこのうちでもっとも古く、ルイ13世期の1635年に設立されています。
ペローは「美しいものは開放されるべきである」という考えをもっていたため、伝統に則って行われるアカデミー・フランセーズ入会の式典も一般公開にすべきと主張し、会員たちが、ビロード地にうつくしい刺繡を施し、各々の名前が入った式服で集まるセレモニーを一般公開した、初めての例になったようです。
引退後に初めての著作を発表
ペローは宮廷で、芸術や文学についてのアドバイスをしていましたが、コルベールの息子ジャン=バティスト・コルベール(セニュレー侯)を補佐してほしいというコルベールの希望により、引退します。そして1683年のコルベールの死は、ペローにとっては公的な活動の庇護者を失うことになりました。
引退したペローは1697年、69歳のときに『寓意のある昔話、またはコント集~ガチョウおばさんの話』という本を出版しました。のちに『ペロー童話集』とよばれるようになった、初めての著作です。
なんとも長い書名ですが、題名になっている「寓意」とは、「ある事柄を、ほかのものごとに仮託して表現すること」という意味で、「たとえ話」がその例です。また、「コント」は、フランス語では「ウィットに富んだ、風刺や皮肉の利いた小話や軽妙な寸劇」のことで、現在の日本で使われる「お笑い」「演芸」に比べると、知的な要素を重んじたニュアンスがあります。
当時は、昔話などを題材に詩をつくるのが流行になっていたそうですが、『ペロー童話集』は、昔話を子どもにもわかるような「おはなし」にまとめている点で、児童文学の端緒とも評価されています。
44歳になって結婚したペローは、年若い妻との間に子どもを得ています。文筆で名を成した後に、その才能を、自分の子どものために生かそうとしたのかもしれません。
今日、マザーグース(Mother Goose)はイギリスの童謡として有名です。しかし、ここまでの経緯でわかる通り、「ガチョウおばさんの話」として、最初にマザーグースの話を集めたのは、シャルル・ペローなのです。
イギリスでは〈nursery rhymes(子ども部屋の歌)〉と呼ぶのが普通。
この俗称の起源は,1765年ころニューベリーJohn Newberyが出版した童謡集《がちょうおばさんの歌Mother Goose’s Melody》にあるといわれる(この書名には1697年に出版されたフランスのC.ペローの童謡集の副題《がちょうおばさんの物語Contes de ma mère l’Oye》の影響があるだろう)。
ペローは、75歳のときにパリで亡くなりました。
ここでは、マザーグースがヨーロッパの伝承と関係があることを説明しました。マザーグースのおはなし・童謡は、さまざまに形を変えて登場するため、英語やイギリスの文化を知る上で、よい手がかりになります。
次の記事は、マザーグースはどのようなおはなしなのか、そしてどのような影響を社会に与えたのか、マザーグースについて紹介しています。
シャルル・ペローの主な作品
シャルル・ペローの作品は、ペローが創作した童話ではなく、ヨーロッパ各地で伝えられる昔話などを、ペローが編纂したものです。
『ペロー童話集』は次の2種類から構成されています。
- 3編の韻文(詩のようなもの)
- 8編の散文(小説のようなもの)
発表された作品は、次のようなものです。
3編の韻文(詩のようなもの)
ペローの韻文3編は、1964年に出版された『韻文童話集』に収録されています。
- 「グリゼリディス」
- 「こっけいな願い」
- 「ロバの皮」
「韻文」とは、音の長短や強弱、韻を踏むなどの一定の形式を守った文章のことで、たとえば日本の短歌・俳句などを含む、「詩のようなもの」です。
8編の散文(小説のようなもの)
1697年に8編の散文が『ペロー童話集』(原題:寓意のある昔話、またはコント集~ガチョウおばさんの話)として刊行されています。
- 「眠れる森の美女」
- 「赤ずきんちゃん」
- 「青ひげ」
- 「長靴をはいた猫」
- 「サンドリヨンまたは小さなガラスの靴(シンデレラ)」
- 「仙女たち」
- 「巻き毛のリケ」
- 「親指小僧」
このなかで、「赤ずきんちゃん」「眠れる森の美女」「シンデレラ」をどこか目にしたことはありませんか。そう、ドイツのグリム兄弟が発表した『グリム童話集』にも収められたおはなしなのがわかりますね!
ペローやグリム兄弟の童話に出てくる「シンデレラ」は、心がけのよい女の子が恵まれない環境に負けず、幸せをつかむおはなし。「ガラスの靴」や「かぼちゃの馬車」など、「シンデレラ」から広まったものもたくさんあります。
次の記事では、ディズニー映画の「シンデレラ」を題材に、「シンデレラ」について掘り下げて紹介しています。
シャルル・ペローの作品の特徴
ペローの生きた時代には、現在の児童文学に当たる、子ども向けの読み物、おはなしは存在していませんでした。
元になったおはなしは、子どものためのものではありませんでしたが、ペローの童話は「妖精」「鬼」「話す動物」などファンタジーの要素を加えた物語として仕上がっているのが特徴です。当時、貴族が集まるサロンでは、「妖精」をモチーフにした話が流行していて、ペローの童話にもその影響がみられる、といわれています。
ヨーロッパ各地に伝わる昔話・民話を、洗練された文学に昇華させ、子どもも学び取れる教訓を加えたという点で、のちに発展する新しい種類の文学、児童文学の礎をつくったといっても過言ではないでしょう。
シャルル・ペローの「新旧論争」
シャルル・ペローを語るうえで有名なできごとのひとつに、「新旧論争」があります。
「新旧論争」は、17世紀の末から18世紀初めにフランスの文壇で行われた論争のことです。長い話を無理に短くまとめると、ギリシャ・ローマの古典文学と近代文学のいずれが優れているかをめぐって、「古代派」と「近代派」がそれぞれに論陣を張りました。別名「古代人・近代人対比論争」ともいわれています。
いくつかの議論があるものの、この論争のきっかけのひとつになったのが、1687年にペローが発表した「ルイ大王の御代」という作品だったのです。
ルイ14世は前年11月に痔瘻(じろう )の手術を受けています。当時としては最先端の外科手術でしたが、シャルル・フランソワ=フェリックス医師による手術は成功し、王を苦しめていた症状が軽快しました。
ペローはルイ14世の病気がよくなったことを祝うために「ルイ大王の御代」をつくり、ルイ14世の治世は、古代ローマのアウグストゥス(Augustus:紀元前63~紀元14)の時代を上回ると、栄華を寿いだのです。
アウグストゥスはローマ初代の皇帝で、その治世にはラテン語詩人のウェルギリウスや、『詩について』を書いたホラティウス、ギリシャ詩のエレゲイアを完成させたプロペルティウス、ティブルス、オウィディウスなどの大詩人が多数生まれ、「ラテン文学の黄金期」とよばれています。
ペローの時代にもアウグストゥス時代に最盛期を迎えたラテン文学は人気がありました。その黄金期に対してペローが、自分たちが生きているルイ14世統治下のフランス文化は勝ると言ったわけですから、大きな波紋をよび、当時のフランス宮廷は「古代派」と、「近代派」に二分されました。
「新旧論争」は、その後も長くヨーロッパ思想界で論議される問題に発展しますが、ペローの作品がそのきっかけになったのは間違いないようです。
『ペロー童話集』と『グリム童話集』
シャルル・ペローの『ペロー童話集』と並んで知られる『グリム童話集』は、先に述べた通り、ドイツのグリム兄弟によってまとめられたものです。ここで、グリム童話について、簡単に紹介しましょう。
グリム兄弟と『グリム童話集』
グリム兄弟は、兄のヤーコプ(Jacob Ludwig Carl Grimm: 1785~1863)と弟の(ウィルヘルムWilhelm Carl Grimm: 1786~1859)のふたりのことです。1628年に生まれたシャルル・ペローより160年近く後に、ドイツ中部のハーナウに生まれました。
日本では、子ども向けの絵本やおはなしの『グリム童話集』で知られていますが、実は作者であるグリム兄弟はふたりとも研究者です。
兄ヤーコブは法学を学んで外交官になりましたが、言語や民俗などドイツの伝統的な文化に関心をもち、やがて退職してゲッティンゲン大学の教授になります。弟のウィルヘルムもやはり法学を学び、図書館司書を務めたのち、兄と同じくゲッティンゲン大学の教授になります。
兄弟は哲学部で言語学・文学を教えていましたが、1837年にハノーファーの王が憲法を停止したことに抗議、他の5人の教授とともに罷免されてしまいます。のちに「ゲッティンゲン七教授事件」として知られたこのできごとは、学問の自由を守る闘いとして世論に支持され、罷免された7人はそれぞれ別の大学に招かれて研究活動を続けました。
ヤーコブは約百年後に16巻で完結する『ドイツ語辞典』の編纂に着手しますが、兄弟の共同の仕事として始めたのが1812年から1815年にかけて公刊された『子供と家庭のための童話集(グリム童話集)』です。日本では江戸時代の初め、第二代将軍徳川秀忠の治世に当たります。
ドイツに生まれたグリム兄弟は、ヨーロッパに伝わるおはなしを集めて『グリム童話集』としてまとめました。次の記事では、今なお世界各地でよみ継がれている「グリム童話」を詳しく紹介しています。
『ペロー童話集』と『グリム童話集』の違い
シャルル・ペローの『ペロー童話集』と、グリム兄弟の『グリム童話集』には、数点の作品が共通して収録されています。それぞれの違いを見てみましょう。
「赤ずきん」
・グリム童話
赤ずきんより先におばあさんの家に行ったオオカミは、おばあさんを食べてしまいます。そして、おばあさんに化けて、後からやって来た赤ずきんをだまし、赤ずきんも食べてしまいます。
しかし、そこに猟師が現れ、オオカミのおなかをはさみで切り、おばあさんと赤ずきんを助け出します。
猟師は、オオカミのおなかに石を詰めたため、おなかが重くなったオオカミは川に落ちて死んでしまいます。
・ペロー童話
おばあさんを食べたオオカミは、おばあさんのふりをしてベッドに赤ずきんを招きます。
やさしく振舞うオオカミを信じた赤ずきんは、ことば巧みに誘われるままに服を脱ぎ、おばあさん(実はオオカミ)のベッドに入ってしまいます。そして赤ずきんは、オオカミにぱっくりと食べられてしまいました。
グリム童話から学べる「教訓」は、「悪いことをしたらみんな罰を与えられる」という因果応報の価値観です。
これに対してペロー童話には、赤ずきんがオオカミに誘惑される、というところに性的な意味が含まれていることがおわかりでしょうか? ペロー版赤ずきんでは、優しいふりをする「オオカミ」のような奴の誘惑に乗ってはいけませんよ、という、女の子・女性に対する教訓が含まれた終わり方になっているのが特徴です。
1697年に『ペロー童話集』が発表されたころには、そもそも子ども向けの読みものがなかった時代ですから、子どもに対して性的な表現を避けるという意識がありませんでした。
一方、1812年、つまりそれから百年以上経って発表された『ペロー童話集』の時代には、性的な内容や、残酷なおはなしは子どもにとってよくない影響を与える、という理由で、該当する部分が削除されています。
「シンデレラ」
・グリム童話
シンデレラに意地悪をした、継母の連れ子の姉たちは、舞踏会で出会ったシンデレラを探すために王子が手がかりにした靴(ガラスではなく金・銀)に合わせるために、自分たちの爪先、かかとを切り落としますが、にじんだ血によってシンデレラでないことがわかってしまいます。
また、晴れてシンデレラが王子と結婚することになった際、結婚式に参列した義姉たちは、シンデレラの肩に止まった鳩によって目をつつかれ、失明してしまいます。
・ペロー童話
ペロー版シンデレラでは、魔法使いが登場してシンデレラを助けます。お城で開かれた舞踏会にシンデレラがはいていくのは「ガラスの靴」で、真夜中に迎えに来るのは「かぼちゃの馬車」です。
グリム版シンデレラは、より勧善懲悪の色彩が強く、シンデレラにつらく当たった義理の姉たちについて残酷な場面が多いのに対し、ペロー版は、魔法の要素が加わって、おはなしが楽しいファンタジーに仕上がっているため、現在に残っているといわれています。
「眠れる森の美女」のモデルになったユッセ城
「眠れる森の美女」も、『ペロー童話集』と『グリム童話集』の両方に収録されているおはなしです。ペロー版では「眠れる森の美女」、グリム版では「茨姫」とされています。
フランス、ロアール渓谷流域にある古い城のユッセ城は、「眠れる森の美女」のおはなしで、王女が長い眠りにつき、目覚めた城のモデルといわれています。
15世紀から16世紀にかけて建造されたユッセ城には、古典様式、ルネサンス様式、ゴシック様式など各時代の代表的な建築様式がミックスされています。城内では豪華なタペストリーや、寄せ細工のタンスなどの美術調度品を見ることができます。
ユッセ城は、ペローの作品「眠れる森の美女」で舞台となった城のモデルであったとされることから、場内には「眠れる森の美女」の登場人物のロウ人形が展示されていて、訪れた人びとをおとぎ話の世界へといざなってくれます。
ユッセ城のある地域は、2000年には「シュリー=シュル=ロワールとシャロンヌ間のロワール渓谷」としてユネスコの世界遺産にも登録されました。一度は訪れてみたいロマンチックなお城です!
シャルル・ペロー名言
75歳まで長い人生を生きたシャルル・ペローは、数多くの名言を残したと伝えられています。
・ダイヤモンドや金貨は、人の心を大きく動かす。けれども優しい言葉は、もっと力があり、もっと大きな価値がある。
・父親から息子へと贈られる豊かな遺産を受け継ぐのはいかに恵まれたこととはいえ、ふつう若者にとって、世渡りの術と駆け引き上手は、もらった財産より役に立つ。
・美しい立派ないい心をもった相手を待っているということは難しいことだ。しかし、待つことによって幸福は増すことはあっても減ることはない。
・好奇心というものは、とても人の心を惹きつけるが、往々にして多くの後悔のもとになる。
栄華を誇るルイ14世のフランス宮廷で活躍した文化人として、ペローは、さまざまなひとと出会い、表向きの華やかな面と、日の当たらない影の部分を両方見てきたことでしょう。今聞いても、なるほど、と思える名言ですよね!
まとめ
17世紀のフランスに生まれたシャルル・ペローは、裕福な恵まれた家庭に育ちました。勉強好きで賢い資質を生かして法学を学び、弁護士の資格を得たあとも、有力政治家の後ろ盾を得て宮廷に出仕し、エリート街道をまっしぐらに進む人生を送りました。
そのペローの名を後世に残した作品が、『ペロー童話集』です。しかしペローが本格的に童話を書き始めたのは宮廷を引退した晩年でした。25歳も年が離れた若い妻に、結婚後わずか6年で先立たれ、残された幼い子どもたちの教育のために童話を書き始めたといわれています。
余談ですが、ペローは「赤ずきんちゃん」「眠れる森の美女」などのおとぎ話を出版した際、10歳になる息子の名前を借りたといいます。児童文学というジャンルが確立されておらず、昔話やおとぎ話などは、詩文に比べて低く思われていた時代のことですから、ルイ14世時代の宮廷で活躍していたころの彼の敵対者に、冷笑されることを恐れたという説があります。
もし本当の話なら、待遇に恵まれて華やかにみえる宮廷暮らしも、ずいぶん窮屈なところがあったのではないか、とペローに少しだけ同情してしまいます。
宮廷で長く王に仕えた経歴があるペローですから、物語に登場する王様や貴族、かれらにかしづく廷臣たちの様子も、実際に見聞したことが大いに役立ったことでしょう。そのうちの幾人かは、ペローの周りにいた人びとがモデルになっているかもしれません。
どんな世界にも悪意をもったひとがいたり、心を揺らがせるような誘惑があったりすることも、ペローはよく知っていたはずです。
ここで紹介してきた、当時の歴史的な背景を知った上で読み直すと、子ども向けのおはなしであっても、ペローの物語には学ぶべき教訓がたくさんあることがわかります。だからこそ、ペロー童話は、発表されてから何世紀も経った現在でも、大人・子どもを問わずに愛され、読み継がれてきたのでしょう。
「子どもに読ませたい世界の絵本」シリーズには、他の記事もあります。
シャルル・ペローと同じくフランスに生まれたサン・テグジュペリは、『星の王子さま』のほか、『人間の大地』『夜間飛行』などで知られる優れた作家です。こちらの記事もぜひ読んでください。