古い童話、それもヨーロッパに出てくる童話は、日本人の私たちが知らない、それこそ「お姫様」や「王様」、「召使い」など「お城の中の世界」を想像させるものが多い気がします。

当時の人々のファッションや、ライフスタイルなどは優美で、現在でも憧れる華やかさがあるものです。

その華やかさが、フランス・パリ出身の「シャルル・ペロー」の特徴かもしれません。

高貴なペローの世界を訪ねてみましょう!

1.シャルル・ペローの生い立ちと略歴

シャルル・ペローは、1628年、フランスのパリで生まれます。

ペローは司法関係の仕事をしていた父親の裕福な家の、7人兄弟の末っ子として周りから愛されて育ちました。

幼いころから勉強が好きな賢い子どもで、成績はいつもトップクラスでした。

フランスでも当時では有名なエリート校で学び、法律を学び、父親の後継者になろうと勉学に励んでいました。

そのころのフランスで大学に行くのはとてもハードルが高かったのですが、幼いころからラテン語の勉強を始め、ギリシャやローマ時代の古典まで読むことができたそうです。

夢が叶って弁護士になったペローは、その文章のうまさを認められて、当時有名だった政治家、コルベールに気に入られ宮廷で仕事をするようになります。

美しいものが好きだったペローは、芸術的才能も持っていて、王様の依頼によりタペストリーをデザインしたり、1668年には王の最初の画家、シャルル・ル・ブランをたたえるために絵画を描いたり、建設物のデザインに関わるなど、政治や哲学以外のマルチな才能を開花させました。

「美しいものは皆に開放するべきである」と主張し、その人柄も称えられアカデミー・フランセーズ(フランスの国立学術団体。フランス学士院を構成する中の最古のアカデミー)の会員にも選ばれましたが、そのセレモニーを一般公開した初めての人物もペローだったようです。

当時「太陽王」として知られるルイ14世の宮廷(ブルボン王朝)で、芸術や文学のアドバイスをしていましたが、晩年になってから自分の子どもの教育のためもあって、子どもにも伝えられるような童話を作るようになり、1697年69歳の時に「寓意(ほかの物ごとにかこつけ、ほのめかしてあらわした意味)のある昔話、またはコント(フランス語で風刺に富んだ短い物語。軽妙な寸劇)集~ガチョウおばさんの話」という本を出版しました。

この本はのちに「ペロー童話集」と呼ばれるようになりました。

見ての通り、「ガチョウおばさんの話」はマザー・グースとして有名ですが、最初にマザー・グースの話を集めたのはシャルル・ペローなのです。

そして75歳の時に、パリで亡くなりました。

2. シャルル・ペローの主な作品

2. シャルル・ペローの主な作品

シャルル・ペローの作品は最初からペローが作った童話ではなく、ヨーロッパ各地から集めた民間伝承を、ペローが編纂したものです。

ペローの童話集は次の2種類から構成されています。

  • 3編の韻文(詩のようなもの)
  • 8編の散文(小説のようなもの)

発表作品は以下の通りになります。

3編の韻文(詩のようなもの)

  • 「グリゼリディス」
  • 「こっけいな願い」
  • 「ロバの皮」

これら3編は韻文で、1964年に出版された「韻文童話集」に収録されています。

8編の散文(小説のようなもの)

ペロー童話(原題:教訓を伴う昔話またはコント集ーガチョウおばさんの話)という8編の散文が1697年に刊行されています。

  • 「眠れる森の美女」
  • 「赤ずきんちゃん」
  • 「青ひげ」
  • 「長靴をはいた猫」
  • 「サンドリヨンまたは小さなガラスの靴(シンデレラ)」
  • 「仙女たち」
  • 「巻き毛のリケ」
  • 「親指小僧」

この中で、「赤ずきんちゃん」「眠れる森の美女」「シンデレラ」は、グリム童話の中にも納められているのが一目でみてもわかりますね!

3.シャルル・ペローの作品の特徴

ペロー時代には児童文学のようなものは存在していませんでした。

もともと、オリジナルは子どものために作られたものではなかったようですが、当時貴族が集まるサロンでは「妖精」をモチーフにした話が流行していた影響もあったと言われる、

「妖精」「鬼」「話す動物」などファンタジーな物語に仕上げたのが特徴になっています。

魔法の民話を洗練された文学に変化させ、最後に教訓を加えたという点が、新しい種類の文学の基礎を作ったと言っても過言ではないでしょう。

4.シャルル・ペローの「新旧論争」

4.シャルル・ペローの「新旧論争」

シャルル・ペローを語るにおいて有名な出来事に「新旧論争」というものがあります。

17世紀の末にフランスで起こった新旧論争は、別名「古代人・近代人対比喩争」と言われています。

この論争のきっかけになったのが、シャルル・ペローの「ルイ大王の御代」という詩でした。

これは、ルイ14世が病気快癒したことをお祝いする詩であるとともに、ルイ14世の治世は、古代ローマのアウグストゥの時代を上回る素晴らしさと述べていたものです。

当時はアウグストゥの治世下であったラテン文学が人気で、古典古代の最盛期であったのに対して、ペローは自分の時代であるフランス文化がそれに勝る、と説いたので、フランス宮廷にいる古代人派と、近代人派に二分されたと言います。

この論争は長い間、ヨーロッパ思想界の大きな問題になったということです。

5.グリム童話とシャルル・ペローの違い

5.グリム童話とシャルル・ペローの違い

ペロー童話とグリム童話に共通している数点の作品の違いを見てみましょう。

「赤ずきん」

・グリム童話

赤ずきんよりさきにおばあさんの家に行ったオオカミは、おばあさんを飲み込んで、おばあさんのふりを赤ずきんをだまし、赤ずきんも食べてしまいます。

しかし、そこに猟師が現れ、おなかをはさみで切り、おばあさんと赤ずきんを救出します。

代わりにおなかに石を詰めて、オオカミは川に落ちて死んでしまいます。

・ペロー童話

おばあさんを飲み込んだオオカミは、ベッドでおばあさんのふりをして赤ずきんを招きます。

優しく振舞うオオカミを信じて、誘われるままに服を脱いでベッドに入り込んだ赤ずきんは、オオカミにぱっくりと食べられてしまいました。

グリム童話でわかる「教訓」は、「悪いことをしたらみんな罰を与えられるのだ」ということですが、ペローがこの物語を書いた当初はにこども対して性的な表現を避ける、という意識がなかったためこのようなラストになってます。

オオカミに誘惑される、というところに性的な意味が含まれていることがお判りでしょうか?

そして、優しいふりをする「オオカミ」のような奴の誘惑に乗ってはいけませんよ、という女性に対しての教訓が含まれているのがペロー版赤ずきん、ということになります。

グリムの時代には、性的なものや、残酷なものは子どもによくない、ということで削除されています。

また逆に「シンデレラ」」は、グリム版は残酷なシーンが多いのに対して、ペロー版は魔法の話が楽しくファンタジー色が強いため、現在に残っていると言われています。

6.シャルル・ペロー名言

ダイヤモンドや金貨は、人の心を大きく動かす。けれども優しい言葉は、もっと力があり、もっと大きな価値がある。

父親から息子へと贈られる豊かな遺産を受け継ぐのがいかに恵まれたこととはいえ、ふつう若者にとって、世渡りの術と駆け引き上手がもらった財産より役に立つ

美しい立派ないい心を持った相手を待っているということは難しいことです。

でも、待つことによって幸福は増すことはあっても減ることはありません。

好奇心というものは、とても人の心を惹きつけるが、往々にして多くの後悔のもとになる。

今聞いても、なるほど!と思える名言ですよね!

「眠れる森の美女」のモデルになったユッセ城

ユッセ城はロアール渓谷流域の古城の一つです。

古典様式、ルネサンス様式、ゴシック様式などの建築様式がミックスされていて、城内では豪華なタペストリーや、寄せ細工のタンスなどの美術調度品を見ることができます。

ペローの作品「眠れる森の美女」のモデルであったとされたユッセ城の中には、「眠れる森の美女」の登場人物のロウ人形が展示されていて、訪れた人々をおとぎ話の世界へといざなってくれます。

2000年には「シュリーシュルロアールとシャロンヌ間のロアール渓谷」の名称で世界遺産に登録された、一度は訪れてみたいロマンチックなお城です!

まとめ

裕福な家庭に生まれ、エリート街道まっしぐらな人生を送ってきたペローが、本格的に童話を書き始めたのが、19歳も年が離れた若い妻が先立ち、残された幼い子どもたちの教育のために書いたという話があります。

その物語が、宮廷のご婦人たちから広まっていった・・・というなんとも高貴な香り漂うエピソードではありませんか。

しかし、どんな世界にも悪意があったり、誘惑があったりすることを、ペローの物語を深く考えてみると、見えてくる教訓がたくさんあります。

だからこそ、何世紀も経った現在でも、大人も子どもも問わずに愛され続け、伝承されてきたのでしょう。

余談ですが、当時ペローは「赤ずきんちゃん」「眠れる森の美女」などのおとぎ話の出版をした際、彼の敵対者から冷笑さえることを恐れて、彼の10歳の息子の名前を借りて出版したとか?

もし本当であったら、今とはずいぶん違って窮屈だったのだろう、と宮廷暮らしだったリッチなペローですが、少しだけ同情してしまいました。