「世界の喜劇王」としてたくさんの名作を世に送り出したチャップリン【Sir Charles Spencer Chaplin】は、現代の映画界や音楽界にも大きな影響を与え続けています。

そんな天才、チャップリンの人生を垣間見てみましょう!

1.チャップリンの略歴

  • 1889
    イギリスのロンドンで、父チャールズ・チャップリン・シニアと、母のハンナ・チャップリンの間に生まれる。芸人だった両親はその1年後に離婚する。
  • 1894
    歌手だった母ハンナが体調不良だったので、代役として舞台に立ち歌を歌って大喝采を浴び、舞台デビューを果たす。
  • 1896
    母親が精神病院に入院し、異父兄のシドニーと一緒に孤児院や救貧院を移動しながら、お金を稼ぐために色々な仕事を経験する。
  • 1899
    地方の劇団一座に入団し、本格的に演技の勉強を始める。
  • 1908
    兄シドニーの紹介でパンtマイムの名門だったフレッド・カーノー劇団に入団する。
  • 1913
    2度目のアメリカ公演の際、映画プロヂューサーに才能を買われ、キートン・スタジオに入社。
  • 1914
    映画デビュー作「成功争い」が公開され評判になる。2作目の「ベニスの子供用自動車レース」で、独特の山高帽子にドタ靴、ぶかぶかのズボンにちょび髭というスタイルを確立。以後多数の映画に出演し、どれも大人気となる。
  • 1916
    年収67万ドルでミューチュアル社と契約を結び、世界で最も給料が高い役者になる。
  • 1917
    ファースト・ナチュラル社と100万ドル契約を結び、自らもプロデューサーになる。
  • 1918
    ハリウッドに自身の撮影スタジオを設立。このころ17歳の女優から妊娠を告げられ結婚するが妊娠は嘘だと発覚する。
  • 1919
    友人ら4人と共に、配給会社「ユナイテッド・ア―ティスツ」を設立。妻が今度は本当に妊娠するが、生まれた子は奇形児で、わずか3日後に死亡した。
  • 1921
    チャップリン初の長編映画「キッド」が大ヒット。3年以内に50か国以上で配給された。
  • 1925
    「黄金狂時代」が公開され、全米で500万ドルの興行収入を得る。このころ当時16歳の女優リタ・グレイとの間に子どもが出来て結婚。2人の子どもを授かった。
  • 1927
    リタと離婚。 莫大な慰謝料を支払う。
  • 1931
    「街の灯」が公開される。プレミアを兼ねた世界旅行で、ガンジー、アインシュタイン、チャーチルなどと交流し、その後来日もした。
  • 1936
    「モダンタイムス」が公開される。時代背景から興行収入はよくなかったが、自作の曲「スマイル」がその後多くのミュージシャンからカバーされる。
  • 1940
    「独裁者」の公開。チャップリンの初のトーキー(それまでの無声映画に対して、セリフや音楽が入った
  • 発生映画)作品となった。生涯で最高の興行収入を得た。
  • 1940
    4番目の妻ウーナ・オニールと結婚。ウーナとの間に8人の子供をもうけた。
  • 1947
    ブラックコメディ「殺人狂時代」でアカデミー脚本賞にノミネートされる。
  • 1952
    「ライムライト」のプレミアのために向かっていたロンドンで、アメリカからの国外追放命令を受ける。
  • 1953
    スイスに移住をする。
  • 1957
    「ニューヨークの王様」をロンドンで完成させる。
  • 1964
    初の自伝「チャップリン自伝」を完成させる。
  • 1967
    英国で初めてのカラー映画作品「伯爵夫人」を完成する。
  • 1972
    アカデミー賞特別賞授与のため、20年ぶりに米国の地に足を踏み入れた。
  • 1977
    長い闘病ののち、12月25日の朝、スイスの自宅で永眠。

2.チャップリンの受賞歴

2.チャップリンの受賞歴

  • 1929  アカデミー名誉賞
  • 1940  ニューヨーク映画批評家協会賞 主演男優賞
  • 1953  ブルーリボン賞外国作品賞
  • 1972  アカデミー名誉賞
  • 1973  アカデミー作曲賞
  • 1976  英国アカデミー賞 フェローシップ賞

など、ほか多数受賞しています。

3.幼少期のエピソード

3.幼少期のエピソード

チャップリンの両親は、ともにミュージックホール(歌・踊り・曲芸・奇術・コント・ヌード-ショーなどを見せる大衆演芸場)の芸人で、父親は歌手、母親は売れない女優でした。

父親はアルコール依存症で、両親の中は長く続かず、異父兄弟とともに家を出て、厳しい貧乏生活を強いられます。

母親は苦しい生活から栄養失調や精神病になってしまい、入退院を繰り返すこともありました。

また、孤児院や救貧院にいた期間のみ、学校に行くこともありましたが、小学校教育も受けていませんでした。

<壮絶な貧乏生活>

  • 異父兄弟のシドニーとふたり母親から離され、屋根裏部屋で兄と泣いていました。
  • 食べるものもなく、兄と二人で床屋やガラス職人の手伝いや、マーケットの売り子をしたり、新聞を売ったり、あらゆる仕事を経験して生活しました。
  • アパートの屋根裏部屋の家賃も払えず、寝るところがなくて公園や道端のベンチで寝たこともありました。
  • 救貧院や孤児院を転々と変わり、母が退院すると兄と一緒に暮らせるということを繰り返していました。
  • 病気で声が出なくて歌えなかった母に代わり、5歳のチャップリンは、ミュージックホールの舞台に引っ張り出され、舞台に置き去りにされました。スポットライトを浴び、窮地に立ったチャップリンは歌を歌い始めます。すると観客は急に静かになり、チャップリンの無垢な歌声に魅了され、拍手喝さいしました。観客から投げられはお金を拾いながら、「お金を拾ったらまた歌ってもいいですか?」といったチャップリンに、大人たちは感動したといいます。
  • 芸の道を目指し始めたチャップリンは、ロンドン市街を歩いて、通行人の顔つきや素振り、喜怒哀楽などをつぶさに観察し、研究していたそうです。
  • 10歳でエイト・ランカシャー・ラッズ劇団に入団し、タップダンサーとしても注目を集めました。
  • 劇団でパントマイムで「シンデレラ」を演じ、旅回りの巡業で各地を転々としました。
  • 母親が発狂をし、近所の子供たちに「プレゼントよ」と言って石炭を配るのを泣きながら止めたチャップリン。母親から「どうして泣いているの?」と問いかけられ、「お母さんが病気だからだよ。」と答えると母親は「私は病気なんかじゃないわ。」と明るく答え、ますます悲しくなって号泣したといいます。

4.母親の影響

4.母親の影響

チャップリンの父親と離婚してから、仕送りも経たれ収入源がなくなり、自分の両親の離婚問題、実母の飲酒癖による放蕩問題などから徐々に精神を病んでいった母ハンナ。

協会のバザーなどで得たささやかなお金でチャップリンと兄を育てていましたが、舞台への復帰は叶わず、矯正院や精神病院の入退院を繰り返し、その後俳優として豊かになったチャップリンに引き取られて63歳まで生きることが出来ました。

母親が精神病院を行き来しているころの話ですが、ある時孤児院で「タムシ」が流行し、チャップリンも感染してしまいました。

タムシに感染した子供たちは隔離され、丸坊主にされて頭にヨードチンキを塗られるのです。

面会に来たハンナに、自分の姿を見られたくなかったチャップリンは看護婦の陰に隠れ、看護婦は「汚い顔をしていますが、許してくださいね」とハンナに言いました。

すると、ハンナは大笑いしてチャップリンを抱きしめ、ほほにキスをして、「どんな汚くてもあなたは世界一可愛いのよ!」「どんなあなたでもいいの、あなたは本当に可愛いんだから。」

感染力が強いタムシがうつるかもしれないのに、一つもためらうことなくチャップリンを抱きしめたハンナ。

貧乏のどん底で、精神が崩壊しそうになっても、子どもを無条件で愛することは決して忘れなかった、そんなハンナの大きな愛情に包まれて育ったチャップリンだったからこそ、世界中の人々を魅了する映画を作ることができたのでしょう。

チャップリンは、「私の母は、私が知っている中で最高に素晴らしい女性である」「もし母親がいなかったら、私がパントマイムで名を成していたか疑わしい。母は自分がこれまでに出会った中で最高の名人」と語っています。

貧困生活の中でも、常に明るく振舞い、自分が演じた役や、歌ってきた歌などを子どもたちに披露して見せたといいます。

チャップリンが映画の中で、みすぼらしい格好をしているのを見たハンナは、「普段からこんな貧乏な格好をしているの?新しい服を買ってあげる」と言ったそうです。

そんな優しくて、才能に溢れた愛すべき母親は、チャップリンの作品や女性観に強く影響をしていたと言えるでしょう。

5.チャップリンの名言

I always like walking in the rain, so no one can see me crying.
私は雨の中を歩くのが好きなんだ。そうすれば、誰にも泣いているところを見られなくて済むからね。

Life is a tragedy when seen in close -up, but a comedy in long-shot.
人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ。

Life can be wonderful if you’re not afraid of it.  All it takes is courage, imagination…and a little dough.
人生は恐れなければとても素晴らしいものである。人生に必要なものは、勇気と想像力、そして少しのお金だ。

まとめ

チャップリンは「喜劇王」ということであまりにも有名すぎて、彼の「笑い」の部分ばかり見てきましたが、子どものころにこんなに苦労をしていたことが、彼の映画が時折見せる「切なさ」や「悲しさ」を表現していた源になっていたのですね。

普通に考えれば、アルコール依存症の父親と、精神病院の入退院を繰り返す母親の間で生まれ育てば、人生に恨みつらみを持ってもおかしくはないのに、こうして大成功を収めたのは(私生活は別として)母親の無償の愛があり、自分自身を決してあきらめなかったからかもしれません。

母親とは本当に偉大で、ありがたい存在です!

You’ll never find a rainbow if you’re looking down.   下を向いていたら、虹を見つけることはできないよ。

ーチャールズ・チャップリン