フランソワ・オーギュスト・ルネ・ロダン【François-Auguste-René Rodin】の代表作品「考える人」はコマーシャルなどにも使われたほど、日本でも有名ですね。
ロダンは幼いころから内気で勉強ができない、落ちこぼれだったという話ですが、そんなロダンが世界的に有名になるまでの軌跡を見てみましょう!
1.ロダンの略歴
- 1840年
フランスのパリに生まれる。父ジョアン・バティスタと妻マリーの間に生まれた二人目の子ども。家庭は労働者階級で暮らしは質素であった。 - 1854年(14歳)
地元のプテット・エコールという工芸学校に入学。主に絵画やデッサンを学ぶ。 - 1857年(17歳)
工芸学校を退学後、国立高等美術学校エコール・デ・ボザールに入学志願するが3年連続で不合格。精神的にダメージを受ける。 - 1860年(20歳)
エコール・デ・ボザール入校を諦め、室内装飾の職人として働き始める。 - 1863年(23歳)
最愛の姉が死去。動物彫刻家のアントワーヌ・ルイ・バリーに弟子入りし大きな影響を受ける。内縁の妻の間に子どもが出来て、装飾の仕事も再開。 - 1870年(29歳)
普仏戦争の兵役は逃れたが、家計が厳しくなり、仕事を求め一家でベルギーへ移住。知り合いの紹介で建設作業に参加する。 - 1875年(35歳)
妻との旅行先のイタリアでルネサンス時代の彫刻を目にし、衝撃を受ける。ベルギーに帰国後、十数年ぶりに彫刻制作を再開し、「青銅時代」を製作する。 - 1880年(40歳)
「青銅時代」が国に買い取られ、彫刻家ロダンは一気に有名になる。国立美術館のモニュメント制作の依頼を受け、テーマに「地獄の門」を選ぶ。 - 1885年(45歳)
教え子のカミーユ・クローデルと出会い、恋愛関係に発展する。 - 1888年(48歳)
美術館の建設が中止となり、それに伴い依頼を受けていた「地獄の門」制作の中止命令が出たが、それを拒否し自らお金を払ってで制作を続ける。 - 1889年(49歳)
コペンハーゲンの展覧会で、「考える人」を展示。最初は「詩人」と名付けられていた。 - 1900年(60歳)
パリ万国博覧会で、アルマ広場の特設展示場に一大回顧展を開催。 - 1906年(66歳)
パリのパンテオン前に、『考える人』の拡大像を設置。 - 1917年(77歳)
妻と婚姻届けを出すも、直後に他界。ロダンも後を追うように9か月後に死去する。「地獄の門」は未完成に終わった。
2.ロダンの作品
- 1882年 接吻
- 1864年 鼻のつぶれた男
- 1878年 The Walking Man
- 1884年 Eternal Springtime
- 1886年 The Thrre Shades
- 1880年 洗礼者 ヨハネ
- 1897年 ヴィクトル・ユゴーのモニュメント
- 1899年 Eve (after the Fall), 考える人
- 1900年 歩く人
- 1905年 Adam and Eve, Eve Fairfax
- 1908年 The Crouching Woman
- 1909年 Gustav Mahler
- 1915年 Study of an arm
他多数の名作を残しています。
3.ロダンの幼少期のエピソード
- ロダンは幼いころから内気で、一人静かに絵を描くのが好きな子どもでした。
- アイコンタクトが苦手で、興味の対象が狭く周りが見えない傾向にあり、コミュニケーションや対人関係を作るのが苦手だったロダンは「発達障害」だったと言われています。
- 貧困層の家庭に生まれたため、学校に行く余裕はなく、勉強もあまりできませんでした。14歳になっても、算数はおろか、読み書きも十分にできませんでした。
- 父親は、あまりに気が利かず頭が悪いロダンに、ほかに何か秀でたところがないかと、芸術を勧めたようでした。
- 装飾芸術学校(プチ・エコール)に入学したロダンは、学校に行く前に友人宅で絵を習い、学校では8時から12時まで絵を描き、午後は図書館やルーブル美術館に通う生活をする学生でした。
- 間違えて入った教室が塑像室で、それをきっかけに粘土に興味を持ち始め、石を掘るのでなく、粘土で形を作る作品を作り始めたそうです。
- 学生時代は、プチ・エコールのオラス・ルコック・ドボアボードランと画家のジャン=伊レール・べロックから、生身のモデルと目による記憶という素描の訓練を受けました。
- 17歳の時にデッサンで学内で一位のブロンズ賞を受賞しました。
- 国立高等戊戌学校を落第したのは、「彫刻は美化するのが伝統」とか「モデルに似すぎている」という理由で落とされたそうです。
ロダンの女性観~マザコンで女たらし?
ロダンと言えば、必ずついてくる女性の名前があります。
その名はカミーユ・クローデルで、19歳の時にその才能を見出されてロダンの弟子になりました。
当時ロダンは43歳でしたが、卓越した技術と才能、そして何より類まれなる美貌を持っていたカミーユに夢中になり、2人はすぐに恋愛関係になりました。
ロダンは内縁の妻ローズがいたため、三角関係になり、その関係は15年に渡り続きます。
その間にカミーユはロダンの子を妊娠しますが、産むことを許されず中絶をします。
その後妻ローズを選んだロダンに捨てられたショックで精神疾患を患い、一生を精神病院で終えた悲劇の芸術家として、その後映画や舞台にもなっています。
炎のように激しい性格のカミーユより、常にロダンを大きな愛で包んでいた妻ローズを選んだことから、幼いころ貧しく孤独だったロダンが求めていた、母親に対する大きなコンプレックスが、このカミーユの人生を狂わせてしまったと言われています。
ロダンは女たらしで常に女性が周りにいないと不安になるタイプでした。
「女性の官能性を引き出せたのはロダンだけ」と言われるように、女性を崇拝し、自立した存在であることを理解していたロダン。
数々の女性たちと浮気をしながらも、母のように彼の帰りを待ち続けるローズを一生の伴侶にしたのも、激しい芸術を求める仕事と裏腹な、温かい安住の地を求めたロダンのマザコン気質がそうさせたのかもしれませんね!
4.ロダンの名言
Nothing is waste of time if you use the experience wisely.
経験を賢く生かすならば、何事も無駄ではない。
I invent nothing, I rediscover.
私は何も発明しない。再発見するだけだ。
Sculpture is the art of the hole and the lump.
彫刻は凸凹の術である。
Patience is also a form of action.
忍耐もまた行動の一つの形態だ。
The main thing is to be moved, to love, to hope, to tremble, to live.
Be a man before being an artist.肝心なのは感動すること、愛すること、希望を持つこと、打ち震えること、生きること。
そして、芸術家である以前に、人間であることだ。
The more simple we are, the more complete we become.
シンプルになればなるほど、私たちはより完全になるのだ。
5.ロダンと日本の関係
有名な芸術家ロダンは、近代日本の彫刻作品に多大な影響を与えましたが、実は当時流行していた「日本趣味」を愛してやまない日本通でもありました。
明治の初め、単身で渡欧し、女座長となって欧米18か国を巡業し、大成功を収めた、「花子」という女優(本名は太田ひさ)がいました。
貧しい家庭のために芸者になり、渡欧してヨーロッパで人気を博した花子の舞台を見たロダンが、花子に熱烈なオファーをして作られたのが「死の顔・花子」でした。
舞台で桜の下で切られるシーンの、花子の断末魔の形相からヒントを得た作品となりました。
6.日本で見れるロダン作品
日本の静岡に「静岡県立美術館」があり、そこにはロダンの作品が32体常時展示されています。
こちらには、「地獄の門」「考える人」「カレーの市民」などロダンを代表する作品がずらりと並んでいます。
ここで出てくるのが「これって全部本物なの?レプリカですよね?」という疑問。
これらの像は、彫刻のように像を削って作ってあるのではなくて鋳造用の原型に流し込んで作られているのだそうです!
と、いうことはレプリカではないにしろ、同じ「考える人」などが何体も同じものを作ることができるということになります。
「考える人」だけでも世界に21体あるそうなんです。
つまり、大量生産ができる、ということにもなりますね。
ロダンが生きていた当時も、こういった本人の許可を取らずに作られた複製が大量に流出していたということです。
なんだか気の毒な気がしますね。
まとめ
いかがでしたか?
落ちこぼれで貧しかったロダンは、自分の芸術を追求するあまり、たくさんの女性を苦しめ、最後は精神をも崩壊させるような男性だったのですね。
それでも女性が放っておけなかったというロダンの魅力が、あの素晴らしい数々の作品に反映されているのかもしれません。
I choose a block of marble and chop off whatever I don’t need.
私は大理石の魂を選び、必要としないものは何でも切り落とす。- フランソワ・オーギュスト・ルネ・ロダン